私が生きる理由
自殺の理由として「生きる理由がないから」とニュースで聞いたことが印象深かった。私も嫌な思いをしてどうしようもなかったとき、私が生きる理由とは何か考えたことがある。
結論、生きる理由は「ない」ということになった。これはどこかで見た言葉の受け売りになってしまうが、どんな人間も生きる理由なんてなくていいと思う。生きている状態が通常であり、それを続けていくことに理由はなくても問題ない。病気や様々な要因で人間は死に得るので、もはや生きているだけでも偉いと思う。
生きる理由とは少し変わるが、私が生きていていいと思える瞬間がある。他人から感謝されたとき、他人のためになったと実感したときだ。その瞬間は生きてきたことが報われた気がするからだ。決してこれが生きる理由ではないけれども、この喜びを知ったとき、私の生きる理由はこれだったのだろうと錯覚するくらいには嬉しく思う。
しかし、他人から感謝される機会はなかなかない。歳を重ねるほどに社会の一部になってきているのだろうが、その分の恩恵は実感しづらい。
他人のためになっているかの指標は何なのか。個人的には、「私が亡くなって悲しんでくれるか」だと思う。
私が生きている間に良い思いをしてくれること、それが思い出に残り続けてくれること、この2つがあって初めて悲しんでくれると思う。実際に悲しんでくれている様子を見ることができるか分からないけれども、私が亡くなって悲しいということは相手にとって良いことを生きている間にできたということではないだろうか。
だからといって死にたいわけではない。精一杯生きていきたいし、これに理由はない。仮に生きる理由があるとしたら、それは他人のためになること、さらに言うと「私が亡くなって悲しむ人を増やすこと」だと思う。私が死ぬときは多くの人に囲まれて死にたい。
私が生きていく上で大事にしていることについても話そう。
ここまで読んで、「他人のためになること」を私が生きていていいと思える理由だと勘違いするかもしれない。正確には「他人のためになると実感すること」である。基本的には一時の感情を満たすことを大事にしており、他人のためになると実感することは喜びを感じる手段の一つでしかない。
好きなことをしたい。(恋愛以外の意味でも)好きな人といたい。そういった感情が動機で生活している極普通の人間にすぎないと思う。
"一時の感情を満たすというこの行為を後になって後悔しないように、もしくは一時の感情を一生感じ続けられるようにしていきたい。"
これが私が生きていく上で大事にしていることだ。(間違っても性欲だけには支配されない。)
先日、ディズニー100周年記念作品「ウィッシュ」を観た。願い続けることは人の原動力、このテーマは多くのディズニー作品に共通することである。
ディズニー映画の中だけに限らず、私たちにおいても願い続けることが原動力だと思う。私が生きていていいと思えるものも、私が生きていく上で大事にしていることも、どちらもそんな大層なものではない。しかし大事なのは願いの大小ではなく、それを願い続けることではないだろうか。
ウィッシュの作品内でも主人公の真の願いについては明言されていない。彼女の願いがどんなものであろうと、他人の幸せを願い続け尽力する主人公アーシャ、彼女のような強く優しい精神の持ち主であり続けたい。