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THE ART of the SPRINT : For Coach Tom Tellez and the Santa Monica Track Club Speed Demons, the Point Is Not Just Winning the Race, but Perfecting the Run. 訳①

 どうもアクセルトラッククラブの草野です。一部の界隈では有名な?Los Angeles Times にテレツコーチと現地で快くサポートしてくれたサンタモニカトラッククラブのOB達に関する長編記事が出ていたので訳したいと思います。敬称は記事に合わせて略させて頂きます、ご容赦ください。
原文は以下から↓ 

『THE ART OF THE SPRINT』 : トム・テレツコーチとサンタモニカ・トラッククラブのスピードデーモンズにとって、ポイントはレースに勝つことだけではなく、走りを完璧にする事だった。

 6人のアスリートが居た。彼らはそれぞれ、いつか世界最速の男になれると思ってヒューストンのトラック・コーチ、トム・テレツに会いに行った。そして彼らは全員、テレツコーチから伝えられた事を未だに忘れていない。
 テレツコーチは彼らに会うなり伝えた。
『レースには2つの方法がある。正しい方法と間違った方法だ』
『回りくどく言う事を辞めるなら、正しい方法とその実行方法だ』

テレツはフレンドリーに彼らの背中を撫でたり、笑顔を向けることもなかった。表情も変えず、彼らの目をただ見つめていた。
 テレツがバイオメカニクスや物理学、運動学について真剣に詳しく語るのを聞けば聞くほど、彼らは疑問を抱かざるを得なかった。いつになったら、この老人は私が偉大な選手になる方法について教えてくれるのだろうか?

 彼らにとってだけでなく、カール・ルイス、史上最も支配的なスプリンターでさえ、その質問に対する回答はまだ保留されている。1979年に高校3年生だったルイスでさえリクルーターに右往左往されながらも、自らヒューストンまで足を運んでテレツとの面接に臨んだが、コーチからは
『You did it! You ran it exactly right!(それだ!正確に正しく走れている!)』
そしてテレツは、ルイス、リロイ・バレル、マイク・マーシュ、ジョー・デローチ、フロイド・ハード、マーク・ウィザースプーンのいずれかが、完璧なフォームでスピードを抑えながらトラックを駆け抜けるのを待っていた。腕を前に出し、余裕を持って走り、肩はまっすぐで、ゴールテープに突っ込まず、スタートからゴールまで稲妻の如く走るのを。

 6人それぞれがレースをするたびに、テレツは彼らが最大のポテンシャルに到達するために新たな取り組みを加えていた。5月には突き刺すようなテキサスの太陽の下で、彼らは準備とトレーニングのためだけに集まった。彼らは、南カルフォルニア出身のテレツの活動拠点であるヒューストン大学の、トラックの芝生の上にバッグを投げ置いた。彼らはまるでダンサーのように優雅に、規則正しく体を伸ばし、体をゆがめ、ストレッチし始めた。
 6人とも 心身ともにテレツに捧げられていた。彼らは全員、この残酷なまでに正直で、科学的に導かれた完璧主義者の熱心な被験者だった。他のコーチが見ているのは、優秀な選手になるであろう選手や既にそうである選手だが、テレツは彼のスプリントに関する完璧な知識を注ぎ込むことで、彼らを10秒を切る驚異的な選手に変えることができる若者たちを見ていた。テレツの探求は彼らの探求となった。彼らは全員カリフォルニアのサンタモニカ・トラッククラブのメンバーだったが、テレツの近くに住むためにヒューストンとその周辺に住んでいた。パーティーを断念し、フリーウェイトでトレーニングを重ね、食事は必要不可欠なものだけに絞り、ギリシャの彫像のような見事なまでの体を鍛えあげた。そして、彼らは集中の研ぎ澄まし方やモチベーションのコントロール、レースプランのリハーサル等々メンタルトレーニングも始めた。なぜなら数少ない選ばれた人間達で競うこの競技において、純粋な才能のみでは勝てないからだ。

テレツは 彼らのストレッチが終わるのを待っていた。彼は背が低くてスリムで、深く日焼けしていて、髪の毛が白くなっていることを除けば、58歳には見えず、実年齢より若く見えた。テレツの視線は彼らの一挙手一投足に注がれていた。
『我々はうまくやっているが、もっとうまくやらなければならない』
と彼は悲観的に言った。そして、
『ステップアップする時が来た』
と言った。
 それは、ニューオリンズで開催される五輪代表を決める全米選手権の1ヶ月前、バルセロナ大会開幕の2ヶ月前のことだった。5月のあの日、6人は100メートルと200メートルで世界のトップ15にランクインしていた。更に言えば、彼らは間違いなくトップ10に入っており、おそらくトップ6を構成していた。

 しかし、それは目前のゴールであるバルセロナへの出場権を保証するものではなく、その先のゴールであるメダルを勝ち取る事も保証するものではなかった。
他のアスリートは彼らを負かすことができる
と、テレツは言った(この予言的な言葉は残念ながら当たる事となる)。
 テレツは常にそのことを、彼らに思い出させなければならなかった。

※1992年の全米選手権会場『Tad Gormley Stadium』

パート2へ続く


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