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THE ART of the SPRINT : For Coach Tom Tellez and the Santa Monica Track Club Speed Demons, the Point Is Not Just Winning the Race, but Perfecting the Run. 訳⑦

どうもアクセルトラッククラブの草野です。前回に続き、敬称は記事に合わせて略させて頂きます、ご容赦ください。
原文は以下から↓ 

 ゲームプランは自然には出てこない、少なくともジョー・デローチには、そして少なくとも今日のジョー・デローチには出てこない。彼は大腿四頭筋を痛めているので、頭の中だけでゲームプランを考えなければならなかった。
私の人生はずっとハンマーを打ち込むかのように走るのが好きな人間だった 「オンユアマーク、セット、Booom!」その衝動をコントロールするために闘ってきた。規律と忍耐を学ぶために闘わなければならなかった
とデローチは話し始めた。彼は隣人のような親しみやすさと清潔感のある好青年で、遠く離れていても笑っていると気づける大きな笑顔を持っていた。25歳のデローチはソウル五輪の200m金メダリストとして君臨していた。しかし、一週間前に四頭筋が破裂するまでは彼は最高の状態だったが、以前と比べて決して良い走りになっているとは言えなかった。深刻な怪我ではなかったが、タイミングは悪く、彼は自分のモチベーションを見失いつつあった。そして、彼のキャリアがどうなってしまうのか?という問いが話題になっていた。

 このような状況は、デローチにとっては何も新しいことではなかった。彼はヒューストンから100マイル南にあるテキサス州ベイシティで育ち、1985年にカール・ルイスが個人的にリクルート訪問のためにベイシティを訪れた時、デローチは感激した。デローチはその場でヒューストンと契約したが、ルイスの訪問がNCAAの規則に違反していたことが判明してしまった。結局、デローチは1年間レースへの出場資格を失うことになった。その間、テレツはデローチが自分自身で復帰に向けて準備しておくことを期待していたが、デローチが精神的にも肉体的にもたるんでしまい、彼は支持を失ってしまった。救いとなったのは、デローチが非常に好感が持てたことと、ルイスの助けもありテレツは彼を再評価し、彼を特別なプロジェクトに加えることにした。

 テレツの指導の効果はすぐには発揮されなかったが、その効果が発揮された時デローチは1988年のソウル五輪で200mに出場することができた。決勝では2レーン先のルイスが「無敵の男」で、大声援を受けていた。2人のスプリンターは血のつながったような親友であり、デローチは弟のような存在であり、弟子のような存在だった。それまでルイスは五輪で出場した種目全てで金メダルを獲得していた。デローチはルイスを横目で見るのではなく、視点を上に上げたり下に下げたりしていた。
自分が競争している唯一の相手は、自分自身だ
テレツは彼の脳にそれを叩き込んでいた。
 デローチは頭の中でイメージした5つのフェーズの1つ(スローダウン!)を抜け出し、イメージ通りギアを切り替えていこうとした瞬間、
コーチTが説明したように、自分がそれを実行できているのがわかった
そして、突然、彼はコーチTの求める走りを成し遂げてしまった。2位のルイスはデローチほどではなかったが、唖然としながらも祝福の言葉を言いに歩み寄っていった。

 しかし、数ヶ月後にはハムストリング断裂の手術を受けることになり、それからの3年間は他の怪我の影響もあり100%の状態で走ることができなかった。その後、妻が3人目の子供を出産したのを機に、怪我を重ねてきた体の問題に加えて子供の責任も重なり、デローチは競技からの引退を考えるようになった。
『今までの自分に戻ることができるのか?』
デローチはコーチTに疑問を投げかけた。
『コーチTは父親のような存在だ。私達は彼を愛しているし、彼は嘘をついたことがない。だから彼を信じている』
コーチは、僕がどれほど以前の自分に戻りたいと渇望しているのか、また戻るためにどれだけ大変な努力をしなければならなかったのかを教えてくれた
デローチはそう語った。

 8日前の練習では、ついにスーパーマンのような輝きが彼の中に戻ってきた。次の日、まだ顔を紅潮させたままのデローチはカーブをジョギングしていると、バレルとマーシュがレースのような雰囲気でスタートブロックをセッティングしているのを見て、一瞬にして彼らの横の位置にあったブロックに入り混ざろうとした。
昔からの悪い癖、そして馬鹿げたことだった
 と彼は自嘲気味に話した。彼の大腿四頭筋に燃え上がるような痛みが襲った。

私は彼らに何千回も言った、不注意なことはしてはいけない、と。今は全米選手権の近くの時期でもない

とテレツは憤慨していた。デローチは五輪のディフェンディングチャンピオンだが、全米選手権に出場するには資格記録20.4を破らねばならなかった。現状では、6月10日のインディアナポリスでのレースだけが、彼にとって唯一のチャンスになっていた。

 彼は足をさすり、マッサージしながら話した。
『まだ負傷した部位に結び目のようなものを感じるけれど、それは毎日緩くなってきている。僕はインディアナポリスに向けた準備ができているよ』
そして、可能性を変える唯一の変数であるかのように付け加えた。
『天気が良くなるように祈ってね!』

 現実ははるかに悲観的だ。
『望みは薄い』
とテレツは率直に言う。彼の表情には疲労感が隠せていなかった。
『怪我が起こった時、私はジョーを見ていたが私に何ができただろうか?彼は自分自身に責任を持たなければならない』
『私にはわからない。それは私の責任かもしれない。ジョーは私を頼りにしていた』
『もっと気をつけさせるべきだった』
 彼の声には傷心以上のものが含まれていた。

パート⑧に続く

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