自主性の先に
スラムダンクで好きなシーンの1つは合宿編です。花道が自らビデオで自分のフォームを見直し、自ら課題を見つけ、自ら相談をする。自主性を持って取り組んでいく姿が感じられます。
自主性、という言葉をスポーツ現場で聞いて久しい思いもあれば未だに自主性が損なわれていると議題になる事もあります。
例によってWEB辞典で調べると、
他に頼らず、自分の力で考えたり行なったりすることのできる性質。
また英語圏では、オートノミー: Autonomyと表現される事もあるようです。以下コピペ。
元々「自分で自分に自身の法を与える者」という古代ギリシア語に由来する概念で、一般に、自主(性)・自律(性)・自立(性)・自治、自治権・自主権・自己決定権などを意味し、政治・道徳・哲学・心理学・医学・宗教・法・人事・人権など幅広い分野において、複数のそしてそれぞれ異なる、または複合的な意味をもつ基礎概念である。
自主性を持つの重要さは語る必要もなく、指導現場でも『自主性を尊重して…』とあります。確かに自主性を持ったアスリートは比較的貪欲な姿勢を示し、それによって良い成果に辿りついている方も多いかと思います。
その一方で思うのです。いわゆる管理は本当に良くないのか?
放任?自主性?
これが今回本題なのですが、自主性を尊重し続けた結果迷子になっていないか?というのが最近考えている議題です。
先ほど自主性を示すアスリートは貪欲に行動する傾向がある、と話しましたが必ずしも行動が正解を選び続けられるわけでもありません。
例えば怪我をした選手がいます。選手は怪我をしている期間にもやれる事はないかと考えます。怪我をした原因は○○が弱かったせいではないかと思い、それを克服しようとします。
言葉だけ見れば中々見上げたヤツじゃないかと思いますが、この○○が果たして本当にそうなのか?という点に危うさがあります。先ほどの問答は全て自己の中で完結してしまう話です。そして外から見ると○○はこうすれば良いのに…と悩みは意外と解決してしまう事も多々あります。
僕の身近な話だとチームメイト(大西)がシーズンオフになり、2021年シーズンの振り返りをしていました。シーズン中に何度か提案しつつも受け入れられなかった話をシーズンが終わった途端に『確かになぁ…』と反芻していました。当事者の瞬間は、中々受け入れ難い事もあるのは皆さんも同じではないかと思います。
そして大西はレースプランとトレーニングプランを以前とは違うアプローチに変え、2022年にハイアベレージのシーズン(200のPB更新も含む)にしてみせました。2023年は静岡国際にてマスターズM35の4×400mRの世界記録に挑戦するようです。頑張っていただきたい…!
話は逸れましたが…極論を言うと自主性は突き詰めすぎると閉じた世界になりがちで客観視が失われやすくなり、自主性を尊重し過ぎると客観的意見も言いにくくなります。
自主性は大事、しかし客観視もまた必要。だからコーチを含むサポーターが必要なのだと思うのです。
たらればではありますが、先ほどのチームメイトが悩んでいる頃に『今回はこれでいく』と強制力があれば試せなかったレースを試せた可能性もあるわけです。違う見方をすればその瞬間に提案を信じさせるほどの説得力を持てなかったとも言えます。
しかし強制、管理のダークサイドは嫌というほど見聞きしています。だからこそ自主性とのセットになるのではと最近思うのです。
手綱を預ける
今回の結論がコレです。
『自分自身で自分自身を何者かのコントロール下に置く事を選ぶ』
これが管理社会的コーチングから脱却した自主性を尊重したコーチングの先に新たに出てくるステージなのではないかなと思っています。
アスリートは結果を出すために全力を尽くします。その全力を方向付ける存在、あるいは全力を全て競技活動に向けられるように負担を減らせる存在。それが求められるようになっていくのではないかと思っています。
競技で結果を出すにつれ、グラウンド内でも外でも『やらねばならぬ事』が増えていきます。
故・野村監督が『監督の仕事は決断すること』と語ったように決断には大きなエネルギーを要します。
自分自身は課された課題に全力を尽くす、課題の選定は信頼する誰かに任せる。
そして誰を信じるか?何を信じるか?という点で選手の目利きや知識が求めれていくのかもしれません。
考えなくて良いのではなく、思考を何に使うか。競技にはシンプルに向かい合いたいものですね。
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