「映画 魔法つかいプリキュア!奇跡の変身!キュアモフルン!」感想

※以下、あんまり映画の内容に触れていません。

奇跡とご都合主義は紙一重であり、何をもってご都合主義とするかは人それぞれですが、ご都合主義自体は物語を展開する上では(必ずしもではないですが)必要なものであり、ただ、観客の現実からあまりにも離れている場合には不快感を与えてしまう。だから多くの創作物はその距離を埋めるためにご都合主義自体に“意味”を与えてくる。私はそう思っています。


本作はタイトルに“奇跡”を冠した作品となります。


プリキュアの映画での奇跡といえば本作でも登場するミラクルライトを思い浮かべます。ミラクルライトは子供が飽きない工夫としてお約束事ではありますが、物語上でも子供たちの応援、想いをミラクルライトに乗せるからこそ発現する奇跡であるし、子供たちの想いを強調する。だからこそ奇跡の体現となったプリキュアが巨悪を打倒or浄化する姿には感動させられますし、ここに意味のないご都合主義はありません。

ただ、本作ではタイトルの奇跡(変身)にはミラクルライトを使わないんですよね。「願いの石」という設定はあるものの、奇跡の担い手はモフルン。彼女の強い願いによって発現する。

「モフルンが居てくれるから私は嬉しいし、楽しいんだよ。」―――みらい
「みらいが楽しいとモフルンも嬉しいのは、みらいたちの笑顔を隣で一緒に見ることができるからモフ」―――モフルン
(―――「映画 魔法つかいプリキュア!奇跡の変身!キュアモフルン!」より)

モフルンがみらいと一緒に居たい……だから“みらいを守りたい”と願う。これは本編でも描いてきたモフルンとみらいの絆、みらいが幼いころからずっとモフルンと居続けた思い出を語っているからこそ、この願いは共感を呼び起こしますし、本作でみらいがモフルンに一緒に居たいと語りかけることでキュアモフルンへの変身……奇跡が発現する。あくまで本作ではミラクルライトはプリキュアのパワーアップ、復活アイテムとして済ませ、奇跡は……モフルンの変身はこれまでのプリキュアシリーズの変身でも描かれてきた“何かを守りたい”という純な願いによって発現する。これにより彼女たちの願いが強調される形となりました。ここに意味のないご都合主義は無く、だからこそ、この奇跡に重みを出せたんだと思います。

キュアモフルンの戦闘シーンは間違いなく格好良いですし、クマ太を救う展開は心を打ちます。それはキャラクターを単に表面的に描いただけではなく、シリーズで続く変身に対する姿勢を貫き、それをキャラクターに愚直に歩ませたからこそ、彼女の願いを強調できた設定の使い方の見事さがあったからこそ、だと思います。

本作品に「“奇跡”の変身」と名付けたのも頷ける話です。


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