みんな平和を願っているのになぜ仲違いをしてしまうのか?
平和じゃないより平和な世の中の方が良いですよね?
どんな人も、世界が平和で、幸せになりたいと思っていると思います。
それなのに、なぜ?仲違いをしてしまったり、不毛な言い争いや、妬み、嫉みが世の中からなくならないのでしょう??
みんなが平和に楽しく幸せに暮らしたいと思いながら、さまざまな選択をしながら生きています。
同じ「平和」を望んでいるのであれば、選択結果は同じはずでは???
「平和の形」がみんな違うんだ
「平和」と一言で言うと簡単ですし、
なんとなく頭の中でこんな感じかな?とイメージできると思いますが、
そのイメージを誰かと共有したことがる人はいるでしょうか?
少し例え話をします。
今日は複数人の友達と、楽しく遊ぶため、
楽しめるものをそれぞれが持ち寄ろうぜ!という事になり
めいめいが、「遊ぶもの」を持って集まることにしたとします。
集まった「遊び」の中から、今日の遊びを決めるため話し合いが始まります。
・今日はドッチボールをしたいな。
・高鬼やろうぜ
・みんなニンテンドー持ってるからそれで遊ぼうぜ
・昆虫採集はどうだ
・サッカーやろうよ
子供たちは一体どうやって決めるのかはわかりませんが
ここに少し民主主義政治を持ち出してみます。
銘々が、自分がなぜこの遊びをしたいのか、なぜこの場にその遊びが適していると思ったのか、意見を言い合います。
こうして話し合った結果、今日のこの時間この人数にあった最善の遊びが選ばれます。
これが民主主義政治の形です。
各々が、意見を持ち寄り最善の道を選ぶ。
ここで大切なことは、「意見を持ち寄る」ということだと思います。
「意見を出す」ことによって、その人の「意図」が表明される訳です。
例え、その人の意見が採用されなくても、
決まった選択を今後実行していくにあたって
その人の「意図」を組んだ形に作り変えられていく可能性が高くなります。
今日選ばれた遊びが高鬼だったとしても、
サッカーをやりたい子の意図も組み入れて、チーム戦にするとか、
昆虫採集をしたい子の意図を組んで林の中でやってみるとか、
ルールを創り出す「材料」として採用されるものです。
しかし、意思表示をしないとどうでしょう?
意思表示をしないというのは、
その「世界」からいてもいなくても
どっちでも良い存在になりがちです。
今いるこの世界がもし
みんなが共通して平和を望んでいる世界なのだとしたら
お互いに、自分の平和の形の意思表示をすべきなのです。
その意思表示がないまま、
ぼんやりとした平和を目指したり
政治家さんや、どっかの偉い人たちの提示した選択肢の中から選ぶような方法では、
本当の意味での平和は訪れにくいし
平和になるまでにいくら時間があっても足りません。
あなたは、どんな「平和の形」を望んでいますか?
そのイメージが
平和な世界を創る
大切な材料になるんですね。
今の世界はあまりにも平和の形を誰かに委ねすぎている様に思う
少し悲しい かなっぺ でした。
意図したことが現実になるのはすでに科学で証明されています。
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