『聖霊のバプテスマ』五 (『預言霊修法』手島郁郎著)

五 『器を空っぽにして神霊を受けよ』

聖書を学ぶ場合に、大切なことはもっと謙虚になって、研究せねばなりません。

聖霊のバプテスマ!

実に名状し難い神秘な経験に対して、これを経験しない神学者や牧師たちは、「ああ、それはシャーマニズムだ、神秘主義だ」とか言って、けなします。

それとも、何か特定の教派のプリンシプル(原理)ぐらいに思って、軽蔑しながら片付けてしまいます。

それは、恥ずかしくも自己の霊的無知を暴露しているのですが、それに気がつかぬのですから、病も膏肓(重症)です。
 
「自分には、その経験が欠けているんだ。聖書が、こんなに書いていることを、私は経験していないんだ」と、どうして謙虚になって、聖書の前にぬかずく様にして読まないのか!

理知的で、ゴウマンな人々には、聖書は何時までも閉ざされた書で、真理の実体を開示してくれません。キリストの霊に満たされようと願うなるば自分が空っぽでなければ駄目です。

自分を空しくせねば、満たされるということがありません。

現代神学なとという虚偽の学問が一杯、頭にこびりついていて、聖書を批判して、聖句のエリ食い引用ばかりしているゴウマンな連中はほとんどが、聖霊に満たされるという経験を欠ぐのであります。

「何も聖霊に満たされずとも、立派な人々で、宗教をやっている人も多くあるではないか?」と抗議する人もあります。

立派な人々は聖霊への渇仰がなくとも生きられるでしょう。だが、それは宗教ではあっても、キリストの福音ではありません。

キリストの福音は、聖霊の血に罪を清められ、人格一新して、神の民とせられることだからであります。

 もし、それら立派な人たちが、聖霊に満たされなさったら、とんなにかすばらしい喜びをもたされるであろうに!と惜しまれてなりません。

 

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