『我ら一つ御霊を飲みにけり』

『我ら一つ御霊を飲みにけり』

2024.5/13(月曜日)
ペンテコステへ向けて朝の祈り会にて

預言霊修法 

『聖霊のバプテスマ』

『聖霊を胚胎する者となれ!』
p75より

「彼らが全員一致し、迫害にもめげず、大活動を開始しだし、集団的意識を燃え立たせましたのは、実にペンテコステ以後の事であります。」

p76

12.12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

(口語訳)

12:12 體は一つにして肢は多し、體の肢は多くとも一つの體なるが如く、キリストも亦然り。

(文語体)

12.12 כי כאשר הגוף הוא אחד ויש בו אברים הרבה וכל אברי הגוף ההוא אף כי רבים הם כלם גוף אחד כן גם המשיח׃

というのは、体が一つで、その中に多くの部分があり、またその体のすべての部分がたとえ多くても、みな一つの体であるとき、メシヤも同様だからです。

כִּי כַּאֲשֶׁר הַגּוּף אֶחָד הוּא וּבוֹ אֵבָרִים רַבִּים וְכָל־אֵבָרֵי הַגּוּף אַף כִּי־רַבִּים הֵם כֻּלָּם גּוּף אֶחָד כֵּן גַּם־הַמָּשִׁיחַ׃

なぜなら、体は一つであり、多くの部分があり、体のすべての部分は、たとえ多くても、すべて一つの体だからです。キリストも同様です。

コリント前書12章12節

『聖霊のバプテスマ』

『聖霊のバプテスマに新生受肉』
p76〜より

宗教「レリジオン」の原語は、結びつくという意味です。

肉なる私たちが、聖なるキリストと結びつくために、死生の関を突破する霊的バプテスマが必要であります。

このキリストのバプテスマを経て、新生命に復活することこそ、使徒パウロの申すキリストのバプテスマというものであります。

かくキリストと結合するバプテスマは、水の悔い改めとか、改宗や回心とか、いう程度の信仰の初歩の事ではありません。

「我はキリストと共に十字架につけられたり、もはや我生くるにあらず、キリストわが中にありて生く」(ガラテヤ2.19〜20)と告白されるような、キリストとの死生の一体感であり、全くキリストへの献供の体験なのであります。

2:19 我は神に生きんために、律法によりて律法に死にたり。

2:20 我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。

(文語体)

כִּי־כַּמֵּת נֶחֱשַׁבְתִּי לַתּוֹרָה עַל־פִּי הַתּוֹרָה לְמַעַן אֶחְיֶה לֵאלֹהִים׃ יט
הִנְנִי צָלוּב עִם־הַמָּשִׁיחַ וְחַי אָנֹכִי אַךְ לֹא־אָנֹכִי כִּי אִם־הַמָּשִׁיחַ חַי בִּי וְרוּחַ הַחַיִּים אֲשֶׁר בִּבְשָׂרִי כַּיּוֹם קָנִיתִי בֶאֱמוּנָתִי בְּבֶן־הָאֱלֹהִים אֲשֶׁר אָהַב אֹתִי וַיִּתֵּן אֶת־נַפְשׁוֹ כָּפְרִי׃

神のために生きるために、私はどれほど律法に従って律法を考えてきたでしょうか。

私はキリストとともに十字架につけられ、生きていますが、私が死なないのは、キリストが私の内に生きておられ、今日私の肉体の中にある命の霊が私が愛する神の御子への信仰によって買い取られたものであり、彼は自分の命を神の子として与えてくださったからです。身代金。

12.19 כי מתי אני לתורה על ידי התורה למען אחיה לאלהים׃

12.20 עם המשיח נצלבתי ואין עוד אנכי החי כי אם המשיח הוא חי בקרבי ואשר אני חי עתה בבשר אחיה באמונת בן אלהים אשר אהבני ויתן את נפשו בעדי׃

わたしはいつ、神のために生きるために、律法によって律法に従うのでしょうか。

メシアとともに、私は十字架につけられ、もう生きていません。しかし、もしメシアが私の心の中に生き、私が今肉の中で生きているのであれば、私は私を愛し、命を与えてくださった神の子の信仰によって生きるでしょう。私にとって。

驚くべき霊的満溢(プレローマ)にひたされて、不思議な能力と自由、至純な愛と知恵を自覚せしめらるる、超自然的な経験なのであります。

この“ペンテコステの霊の流域に浸る境涯”に入るに至って、あなたは単にイエスの信者ではなく、もうキリストの代わりに地上で一使者として、地の果てまでも確かな証人として、出て行くことの出来る使徒なのであります。

私たち老いも若きも、ひとしく使徒的信仰に立たねばなりません。

p77

12.13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

コリント前書12章13節 

(口語訳)

12:13 我らはユダヤ人・ギリシヤ人・奴隷・自主の別なく、一體とならん爲に、みな一つ御靈にてバプテスマを受けたり。而してみな一つ御靈を飮めり。

(文語体)

גַם־אֲנַחְנוּ נִטְבַּלְנוּ כֻלָּנוּ בְּרוּחַ אֶחָד לְגוּף אֶחָד אִם־יְהוּדִים אִם־יְוָנִים אִם־עֲבָדִים אוֹ בְנֵי חוֹרִים וְרוּחַ אֶחָד הִשְׁקָה אֹתָנוּ כֻּלָּנוּ׃

私たちも、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと異邦人であろうと、一つの御霊によって一つの体となるバプテスマを受け、一つの御霊が私たち全員に水を与えてくださいました。

12.133 כי ברוח אחד נטבלנו כלנו לגוף אחד אם יהודים אם יונים אם עבדים אם בני חורין וכלנו לרוח אחד השקינו׃

なぜなら、ユダヤ人であろうと鳩であろうと、奴隷であろうと自由民であろうと、私たちは皆、一つの御霊によって一つの体となるバプテスマを受け、一つの御霊によって水を注がれたからです。

このことの為に先生の連日連夜におけるごぬ等を今、負うものでありたい。

この当時、隈本幕屋に異言を語ることできる者は少数であった。

集団的コンバージョンは、先ず、自分自身のコンバージョンから、
自分自身のど真ん中(霊)に引き起こされるキリストの御業が周囲に感化を及ぼす。

異言の内容が聖別され変わらねばならない。先生の異言は沈黙の異言であった。
しかし、上から聖霊が覆ってきてくれる異言であった。

アーメン

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