キリストの火(聖霊の火を伝える伝道)その一

キリストの火(聖霊の火を伝える伝道)その一

信仰は火である

灼熱の歓喜と高揚である

『聖書の宗教は“喜びと情熱と火をもって行動する人々”の出来事』

導かれた人も、導いた人も、強烈な霊的雰囲気の中に生きました。

 火を地上に投ずるために私は来た! 火がすでに燃え上がっていたら、何を欲しよう。だが、私には受けねばならぬバプテスマがある。それが成し遂げられるまで、私はどんなに思い迫られることだろうか!

(ルカ伝12章49~50節)

イエス・キリストの最大の悲願は、天上の火が地上に投ぜられ、この火が人々の胸に赤々と燃え上がってゆくことでした。「火を地上に投ずるために、私は来た。その火がすでに燃え上がっていたならば(点火されていたなら)、何を欲しよう。しかし、私には受くべきバプテスマがある。それが成し遂げられてしまうまでは、どんなに苦しい思いをするだろうか」と書かれていますが、キリストがご自分で「苦しい思いをする」と言われることを見ますと、この事が主イエスにとって、よほど重大問題であり、思い悩まれた出来事であるかがわかります。

 現代のキリスト教がすっかり忘れ去り、もう心にも惹かなくなっている一つの大きなポイントは、この聖句であると思います。もし、このキリストの言葉がわからなくなってしまったら、もはや新約の宗教ではありません。

しかし、私たちは、主イエスが思い悩むほどに切願されたただ一つの事――「天上の火」に心もやされて、すっかり一変した人間になりたい、と思います。

キリストの燔祭の悲願

 天上の火が地上に燃えつく――この事が始まらぬ限り、いつまでもキリストは思い悩まれねばならない。もし、誰かに燃えついていたら、やがて風が吹けば火は燃えさかります。

しかし、当時、キリストが持ち給うた火は、誰にも燃えついていなかった。生木ばかりの人間を見て、「あぁ、誰かにでもいい、この火が燃えたらなァ」と欲し願われたのが、イエスの御心中でした。

キリストは聖霊と火とをもって我らにバプテスマし給う。

神の人モーセはエジプトで人殺しをして、ミデアンの野に逃れ、ホレブの山のふもとで羊飼をしておりました時に、柴の中に燃える不思議な火を見ました。

「柴に火が燃ゆれど、その柴が燃えぬ」異象の神秘の中に自現し給うエホバを見神し

「モーセよ、モーセよ」と呼びかける声を聞きました。

エホバは「この火に近づいてはならない。足から靴を脱げ、お前の立っているその処は、聖なる地である」と命ぜられた。

この火の中に立ち現われた神、〈その声に撃たれてモーセは一変しました〉。神の人モーセに打ち変えられました。

「火」という言葉をもって、最もよく信仰を象徴できます。新旧約聖書の根底をなしておる思想は、この「火によって始まった宗教」ということです。

 昼は雲の柱、夜は火の柱となってイスラエルの民を導いたのがエホバの神様でした。真っ暗な荒野をゆくとき、燃ゆる火が無ければ、光もありません

宇宙の根底に、根源となる火がある――宗教的な意味における火です。

イエス・キリストは燔祭の小羊となって死んでゆかれました。その意味するところは何でしょうか。

『天上の火がご自身を焼くことを通して、神の祝福が降るというバプテスマでした。』「見よ、神の小羊」と洗礼者は叫んだ。

 シナイ山でモーセが神から十戒を授かった時、エホバの神は、雷のごとく光を発して、焼き尽くす火であったと記してあります。

ヘブル書にも「神は焼き尽くす火である」(12章29節)とあるように、 『火』という言葉は、聖書を一貫する象徴的な意味深い言葉であって、これを抜きにして聖書の宗教は成立しません。 

、『聖書の宗教は、創世記以来、“喜びと情熱と火をもって行動する人々”の出来事』として、つづられています。

信仰は火である。まず、この火を回復しなければ、聖書の宗教ではあり得ません。

この神の霊的な火をもって、

キリストの御神は今や今世紀の日本列島において、この幕屋の一群をお用いて不思議な霊的共同体、キリストの幕屋という不思議な神の国の群れを育成なされておられます。

私たちはこの神のご付託に応えるべく、この世の闇より選ばれ召されたお一人お一人です。

今この原始福音の霊的な小さなグループ、人は虚しく思うでしょう。だが21世紀になってごらんなさい。私たちの中から不思議な人間たちが出てくる! 出てきます! 出てこざるを得ない!

バール・シェム・トーブやツァディックと言われた人たちは、夢の中で、幻のようにして現れてでも次々と人々を導いたと言うけれども、私もやがて死んだら、そうなろうと思っているんです! 喜んでそのためには死を急ごう。

『燔祭の羊となって焼かれてゆくバプテスマ』を喜ぼうと思うんです! 

神靈は一つの火です。赤い蝋燭に燃えた火を、白い蝋燭に移しても、火炎は同じく燃えさかります。まことの生命の火が一つ点されると、民族を超え、国境を越えて火は飛火し、時代を変革せしめる原動力となります。

大事なことは、神の火花にスパークされると、燃え上がる。私たちが、いつまでもくすぶった宗教生活をしているなら、ここで思い切って、一度、魂に火をつけてみることです。

 「地上に火を投ずるために、私は来た!」と叫ばれたイエス―― 暗く萎れ切っている人間の心を燃やすもの、それはイエス・キリストが持ち給う「天来の火」です。

神のスパークに爆発せよ!

アシュレイ バガフルール 燃ゆる ほのお
キリストの火 燃ゆる

アシュレイ

あがないの 御血潮 わが胸こがし

アシュレイ マクヤ 夜明けの歌ひびき

アシュレイ
われら殉ぜん 御名のもとに、


アーメン🙏

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