過ぎ越しの食事(2)


 

2.過越しの食事の準備と食卓

  1. さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」

  2. イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。「わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」

  3. 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。

ここで、「種なしパンの祭りの最初の日」という珍しい表現があります(マルコ12:14)。

「最初の日」とは「過越の子羊を屠る日」のことです。旧約によれば、過越の祭りに続いて七日間の「種なしパンの祭り」がなされました。

「種なしパンの祭りの最初の日」とあるのはマタイのこの箇所と並行記事のマルコだけです。

しかし、このことには重要な意味があります。過越の日のことを「種なしパンの祭りの最初の日」という表現には、「御国の福音」の概念が隠されています。  

どういうことでしょうか。

「種なしパンの祭り」は神の民が一切のパン種を取り除かなければなりません。パン種とは神とは異なる教えのことです。

この世の価値観、人の肉を喜ばせるような教え、伝統を重んじる教えや人の言い伝えなどが「パン種」を意味します。  

すなわち、「種なしパンの祭り」とは、純粋な神の教えによって生きる者となることを教える祭りなのです。

七日間、どんちゃん騒ぎをして建国記念を楽しむ祭りではありません。「種なしパンの祭り」とは純粋な神のことばにとどまって歩むための聖なる期間の祭りなのです。

しかもこの祭りは七日間続きます。

「七」という数字は、七日目にメシア王国が実現することを預言的に啓示しています。御国が実現するまで、教会は「パン種」を入れない礼拝をし続ける必要があることを、使徒パウロは以下のように教えています。

【新改訳2017】|コリント人への手紙5章6〜8節

6あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。

  1. 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。

  2. ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。

マタイもマルコも「種なしパンの祭りの最初の日」という表現を使っているのはある意図があるように思われます。

つまり、強調点が「過越」ではなく、「種なしのパンの祭り」の方にあって、その最初の日が過越の祭りとしているからです。

「過越の日」に自らが十字架において過越の子羊となって死ぬことで、この過越の祭りを成就させ、この過越の祭りを新しい契約における「主の食卓」に置き換え(設立し)ようとしておられるというイェシュアの思いを受け止めた表現であるからなのです。

このこと(25~29節)については、次回で詳しく学びます。この「主の食卓」にイスカリオテのユダは加わっていません。

なぜなら、彼はすでに自分がしょうとすることをイェシュアに暴露されたからです(25節)。

そしてユダが出て行ったあとで、イェシュアは残る十一人の弟子ともに「主の食卓」を制定されるということが起こっているからです。

過越しの食卓とそれに置き換わる「主の食卓」の制定に目を留めましょう。ここでもイェシュアは弟子たちに天の御国のことを語ろうとしているのです。

過越の食事をするために、イェシュアは前もってその備えをしておられました。マタイの福音書では、そのことがほとんど書かれていませんので、あえてそのことをここで扱うことはしませんが、ひとつ「わたしの時が近づいた」というフレーズは重要です。共観福音書の中でマタイだけがここの箇所で「わたしの時」というフレーズを使っています。このフレーズは「この時のために、わたしは来た」という意味で使っています。そして、マタイ 26章45~46節では「それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。『まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。』イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。」とあるように、「わたしの時」とは、罪人たちの手に引き渡され、捕らえられ、十字架につけられて死ぬことです。このことを最も強調しているのがヨハネの福音書です。ヨハネの福音書にはこのフレーズが5回使われています。

  1. 【新改訳2017】 ヨハネの福音書 2章4節すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」

  2. 【新改訳2017】ヨハネの福音書 7章6節

  3. そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。

  4. 【新改訳2017】ヨハネの福音書7章8節

  5. あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」

  6. 【新改訳2017】 ヨハネの福音書12章23節すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。

  7. 【新改訳2017】ヨハネの福音書 17章1節

これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。

「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。

ヨハネが「わたしの時」「時が来た」というときには、受難と死だけではなく、復活し、昇天と着座を示す出来事をも含めて、「人の子が栄光を受ける時」としているのです。

3. 「裏切りの予告」

  1. 夕方になって、イエスは十二人と一緒に食卓に着かれた。

  2. 皆が食事をしているとき、イエスは言われた。

「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」

  1. 弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。

  2. イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。

  3. 人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」

  4. すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。

食事をしているときに、イェシュアは、突然、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」と弟子たちに言います。

すると皆が「主よ、まさか私ではないでしょう」と悲しみます。

するとイェシュアは「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります」と言います。

ヨハネの福音書ではイェシュアのそばにいた弟子(ヨハネ)がそっと「それはだれですか」と主に尋ねています。


【新改訳2017】ヨハネの福音書13章26〜30節

  1. イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。

  2. ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」

  3. 席に着いていた者で、なぜイエスがユダにそう言われたのか、分かった者はだれもいなかった。

  4. ある者たちは、ユダが金入れを持っていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていた。

  5. ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。

“時は夜であった。”

自分でイェシュアを引き渡す機会を狙っていたユダでしたが、食事の席でそのことをイェシュアに悟られただけでなく、「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」と言われたことで、彼の計画ではなく、神のご計画に従って、その夜にイェシュアを引き渡すことになってしまうのです。

そして、夜が明けて、朝の九時には十字架につけられてしまうのですが、ユダはこのような展開になるとは夢にも思わなかったのです。

しかし、「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った」とあります。

この事実と、マタイ26章24節にある「人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです」ということばについて、最後に考えてみたいと思います。

「あなたが生まれて来て良かった」、「あなたはあなたのままでいい!」ということばは人を生かしますが、「生まれて来なければよかったのです」ということばは恐ろしいことばです。

もし聖書を開いて最初に目に留まったことばが、このことばだとしたら、恐ろしいことです。

このことばの真意は「サタンが彼に入った」ことと無関係ではありません。サタンが入る侵入口がユダにはあったことを暗示させています。ユダにとっての侵入口とは「お金」です。

マタイは富が堕落させる力をもっていることをはっきりと述べています。いのちの木のそのものであるイェシュアのそばにいながら、ユダは金に執着したために永遠に価値あるものを自分の意志で捨ててしまったのです。

彼は「欲望(=原文「腹」)を神とした」ゆえに減びを招いたのです。

彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。

(ピリピ3:19)

【新改訳2017】 マタイの福音書6章19~21、24節

  1. 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。

  2. 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。

  3. あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。


【新改訳2017】 マタイの福音書19章22~23節

  1. 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

  2. そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るには難しいことです。

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