『聖霊のバプテスマ』(『預言霊修法』手島郁郎著)六 『最善を与える神』


六 『最善を与える神』

 次に、聖霊を全然求めない人は論外として、世間には、「聖霊には満たされたい。しかし、私には、こうこうしたい、自分の欲望があるので、もし聖霊に満たされて、神様が自らの欲しない方向にでも、自分を持ってて行ってしまわれると困るから」と危惧して、聖霊の力に与かる前から、尻込みし、オズオズして、聖霊を制限して、条件付きでなら受け取ろうか、との態度の人もあります。

だが忘れてはなりません。神は愛です。神は本当に最善を与えようとされているのです。しかるに、未だ最善を知らずに、勝手に自分の制限された狭い考え方で次善を最善と思っているのならば、愚かなことです。

神は善にして、最善をなし給います。

またキリストが与え給う嗣業に、不安な恐ろしい気になり、妙な了見を持つなら愚かなことです。そんな偏見で、とうして聖霊の満たしなどあるものか!

肉の親でさえ、子供には最善のものを与えようとするではないか。まして父なる神が私たちに用意し給うものは、最善のこと、実に量り難い賜物でなくて、何でありましょう!

 「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。天の父は求むるものに聖霊を賜わざらんや!」と主イエスは言われました。

(ルカ11.9〜13)

この聖霊に満たされてこそ、私たちは、キリストと結びつき、キリストと一つになれるのであります。

「私は真の葡萄の木であり、汝らは枝である。私に留まり、私もまたなんじらに居るならば、多くの実を結ぶ。私なくしては、汝らは何事も為し得ない。

汝らが、もし私に留まり、私の言葉が汝らにあるならば、望むがままに願え。
与えられるであろう。
汝らが多くの実を結ぶならば、私の弟子である、、、、」。

(ヨハネ伝15.5〜8)

私たちがキリストと結合して、聖霊のいのちが流れて来ると、

「御霊の果実  愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、信仰、柔和、自制」などの諸徳が生まれて来ます。

(ガラテヤ5.22)

諸種のカリスマ力にも恵まれます。

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