聖書箇所】出エジプト記 11章1節~12章36節

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【聖書箇所】出エジプト記 11章1節〜12章36節

はじめに

心をかたくなにするパロに対する「なお一つのわざわい」(11:1)が最終的な災いとしてもたらされます。

その最終の災いとは、エジプト全土にいるすべての初子(人も、家畜も)が「死ぬ」というものです。

災害(さばき)

聖書箇所 出エジプト11.1〜10

第十の災害

パロが心をかたくなにした結果として、(初子の死)エジプト全土の初子(人も、家畜も)がみな死ぬという災いがもたらされた。

エジプトには「死」、イスラエルには「生」。

どのようにして区別されるのか、その手続きが出エジプトき12章に語られています。

この災いによって、エジプト中に「大いなる叫び」が起こり、主が語られたように(6:1、11:8)、エジプトはイスラエルの民をせきたてて、強制的にその国から追い出すことになったのです(12:33)。

そしてその日はイスラエルにとっての建国の記念日となったのです。

1.「死」と「生」の神の区別の手続き

主は、エジプトとイスラエルを区別するための具体的な手続きをモーセとアロンに仰せられました。

その手続きとは以下のとおり。

(1)家族ごとに羊一頭を用意する。

(2) その羊は傷のない小羊(1歳の雄)であること(確認のために4日を要すること)。

(3)その小羊をほふり、血を門の柱とかもいに塗ること。

(4)ほふられた羊は主への過越のいけにえとして火で焼き、その日にすべて食べること。

(5)朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならないこと。

さらに付帯事項として、この日を記念すべき主への祭りとして祝うこと。

またその祭りの七日間は「種を入れないパン(マッツォット)」を食べること、さらにその期間は家からすべてのパン種を取り除くことが永遠の掟として規定されています。

しかし、出エジプト記12章で重要なことは、主がエジプトを打つために行き巡られるとき、傷のない小羊の血を見て、その戸口を過ぎ越されるということです。

動詞の「過ぎ越す」は「パーサハ」פסחで、「意図的にものに触れないで通り過ぎること」を意味します。誰が過ぎ越すのかといえば、それは神ご自身です。

これは、後のイエス・キリストの十字架の贖いと聖餐式の制定にも関連する重要な事柄です。

イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのち(救い)を持っています。」(ヨハネの福音書6:54)と言われましたが、ここ出エジプト記12章がその原点となっています。

イスラエルの歴史において過越の出来事を祭りのたびに、安息日ごとに「思い起こす」ことが律法で定められています。

しかし、実際の歴史においては、そのことがないがしろにされていた時代が多くあったことも事実なのです。

そのことについては、HPに掲載されている「申命記の瞑想」の「第五日」を参照のこと。

新約聖書で使徒パウロが次のように述べています。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

永遠の「生と死」を分かつのは、主イエス・キリストの血に対する私たちの信頼です。

キリストの十字架で流された血潮は、私たちのすべての罪を赦し、きよめる力をもっているのです。十字架のもとに身を寄せる時、はじめて、真の平安を得ることができるのです。

神の怒りと罪の結果である死は、すでに過ぎ越されているのです。

2.「こうして、彼らはエジプトから剥ぎとった」とはどういう意味か

12章36節に「こうして、彼らはエジプトからはぎ取った。」とあります。この節を他の聖書の訳と比べてみましょう。

【新共同訳】

「彼らはこうして、
エジプト人の物を分捕りとった。」

【関根訳】、【岩波訳】

「彼らはこうしてエジプト人から奪い取った。」

【フランシスコ会訳】

「こうしてかれらはエジプト人のものを奪い取った。」

「はぎ取った」、「奪い取った」という表現はかなりきつい表現です。原語は「ナーツァル」のピエル態が使われています。

ニファル(受動)態では「救われる、逃れる」という意味ですが、ピエル態になると「はぎ取る、略奪する、強奪する」といった意味になります。

しかし、この訳ですと、その前にある「イスラエル人はモーセのことばどおりに行い、エジプトから銀の飾り、金の飾り、それに着物を求めた。主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプトは彼らの願いを聞き入れた。こうして・・」(12:35,36)とあるので、強引に「はぎ取った」り「奪い取った」というのは不自然な感じがします。

むしろ、ここは新共同訳のように「分捕り物とした」という方が自然です。

というのも、11章3節で「主はエジプトが民に好意を持つようにされた。」とあり、さらには「モーセその人も、エジプトの国でパ口の家臣と民とに非常に尊敬されていた」とあるからです。

つまり、イスラエルの民は長い間の奴隷生活ではありましたが、働きに見合った当然の報酬として、多くの財産を分捕り物としたということです。

イスラエルの民がエジプトから分捕りした物は、やがて主の幕屋などの材料とするためにささげられます。

つまり、神のために用いられるのです。この「分捕り物とした」という動詞を七十人訳では「スクリュオー」と訳しています。

新約聖書にはそれと同じ語彙は使われていないのですが、ルカ11:22の名詞「スクーラ」の動詞形と考えることができます。

新約聖書で「分捕り物」を表わすことば(名詞)は「スクーラ」です。

ルカ11章22節の1回しか使われていない名詞です。

「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。

しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」とあります。「もっと強い者」とはイエスのことです。

彼が敵の分捕り品を奪い、分けるという意味です。

やがて復活されたイエスは天に上り、その分捕り物をご自分の者たちに分け合います。

それが「賜物」と言われるものです。教会はひとりひとりに与えられる「賜物」によって建て上げられていくのです。

2011.12.9

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