シリーズ「霊の中に生きる」 No.13人の霊(13)③


シリーズ「霊の中に生きる」 No.13

人の霊(13)③

●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。

シリーズ「霊の中に生きる」の第13回目です。

今回も「人の霊」について扱います。
今日はその第2回目です。

人の霊(13) - 牧師の書斎

さらに、メシア詩篇の一つである詩篇24篇を見てみましょう。

【新改訳2017】詩篇24篇3~6節


3

だれが 【主】の山に登り得るのか。だれが 聖なる御前に立てるのか。


4

手がきよく 心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人。


5

その人は 【主】から祝福を受け 自分の救いの神から義を受ける。


6

これこそヤコブの一族。神を求める者たち あなたの御顔を慕い求める人々である。

セラ

4節にある「心の澄んだ人」は単数形の「バル・レーヴァーヴ」(בַּר־לֵבָב)です。

「だれが 【主】の山に登り得るのか。

だれが その聖なる御前(=聖なる所)に立てるのか。」とこの詩篇は問いかけています。

「【主】の山」と「聖なる御前(=聖なる所)」は同義的パラレリズムとなっており、それは「エルサレム」を意味しています。

そこにだれが「登る」のかをヘブル的視点から考えるならば、イェシュアのことを預言的に啓示していることが分かります。

なぜなら、へブル語で「登る、上る」という動詞「アーラー」(עָלָה)は単に「登る」という意味の他に、「(いけにえを)ささげる」とか、「反芻する」という意味があるからです。

「反芻する」動物はきよい動物であり、全焼のいけにえや罪のいけにえとして祭壇にささげられる牛や羊です。

「主の山に登る」という行為は、やがて聖なる山エルサレムにおいて、神にささげられる神の子羊イェシュアを預言的に象徴しています。

つまり、「だれが 【主】の山に登り得るのか。だれが 聖なる御前に立てるのか」と問われるならば、それは「心の澄んだ人」であるイェシュアしかいないのです。

イェシュアこそ霊の中に生きた模範なのです。

イサクの燔祭

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