シリーズ「霊の中に生きる」 No.11人の霊(11)⑥

シリーズ「霊の中に生きる」 No.11
人の霊(11)⑥

いのちを与えるイェシュアの御霊

●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。

シリーズ「霊の中に生きる」の第11回目です。

今回も「人の霊」について扱います。
今日はその第6回目です。

人の霊(11) - 牧師の書斎

10節の「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである」とあります。

パウロの一行が「ただちにマケドニアに渡ることにした」のは、彼らが「確信したから」です。確信したのは霊ではなく、心の領域です。

10節の主動詞は、「ただちに・・渡ることにした」の「した」です。

この「した」は「ゼーテオー」(ζητέω)という動詞で、「熱心に捜し求める」という意味です。ここではあることを「熱意をもってした」という意味です。

つまり、「渡ることにした」のは、自分たちが「確信したから」です。

「渡ろうと熱心に努めた」の説明文として、「神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだと、確信したから」なのです。

ここの「確信する」という動詞は「スンビバゾー」(συμβιβαζω)です。

この「スンビバゾー」にある「スン」(συν)は「共に」を意味し、「ビバゾー」(βιβαζω)は「結び合わせる」という意味で、「共に組み合わせる、共に結び合わせる」ことで最終的な結論を導き出しています。

「スンビバゾー」共に結び合わせる

これまでの神の様々な導きを組み合わせることによってで、神のみこころを「理解する」ことで最終的な結論を引き出すという意味です。これが霊に支配された新しい心なのです。

ここで注目すべきことは、「マケドニアで福音を宣べ伝えること」を神のみこころとして理解し「確信した」ことが、パウロ一人だけでなく、「私たち」の全員が理解したということです。

この確信にも「スン」(συν)があったのです。

マケドニアに渡って行くことは、福音がヨーロッパに拡大される糸口となることを意味していました。

その最初の初穂がピリピに住む一人の女性リディアの回心です。このことが、パウロの一行の宣教を物質的に支えることになるとは誰にも理解できなかったはずです。

「理解する」前に、直覚による「知る」という導きがあったのです。

直覚が働く場は私たちの霊の中です。

それはことばにならない、無言の、重いものが潜んでいて、私たちの理解の型紙や感情や意志に対して立ちはだかります。

自分の思いを頑なに押し通すことは、直覚の働きを締め出してしまうことになります。

私たちを常に「新しく造られた者」として、いのちを与えるイェシュアの御霊が、神のみこころに従って、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです(ローマ8:26)。

霊における直覚は、そのとりなしの恵みの結果と言えないでしょうか。

ネゲブの荒野


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