シリーズ「霊の中に生きる」 No.9人の霊(9)③

シリーズ「霊の中に生きる」 No.9
人の霊(9)③

人の霊(9) - 牧師の書斎

●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。

シリーズ「霊によって生きる」の第九回目です。

行雲流水(こううんりゅうすい)

今回も「人の霊」について扱います。
今日はその第三回目です。

【新改訳2017】
ローマ人への手紙5章18~19節
18

こういうわけで、ちょうど一人の人によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。


19

すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。

ここはヘブル的修辞法の同義的パラレリズムで書かれています。

つまり、同じことを別のことばで言い換える修辞法です。

ここでは「一人の人によってすべての人が定められる(=包括される)」という神の事実が記されています。

2. 私たちは包括的に完成されているという事実

さらに、この包括的概念は私たちの意志を越え、かつ時間と空間をも超えているということです。

神は御子イェシュアを人間として遣わされました。

イェシュアは受肉し、三十歳で公生涯に入り、御父のみこころに従い、天の御国の福音を宣べ伝え、奇蹟によって御国のデモンストレーションをなしましたが、十字架の苦難と死を受けられました。

その後葬られ、三日目に死からよみがえって、「いのちを与える御霊」となられました。

そして、機能不全を起こして死んだようになっていた人の霊の中に入ることによって、人の霊を回復してくださったばかりか、神聖な霊(生命を与える霊)と人の霊がミングリングすることで、私たちが神の子であることを証しすることを得させてくださったのです。

こうして私たちをキリストにある「新しく造られた者」(「ニュー・クリエイチャー」New Creature)としてくださったのです。

このキリストの事実の中に、すでに私たちが包括されているということなのです。

これは私たちの理性(知性)では考えられません。この事実をあるがままに受け入れる場こそ「人の霊」の中なのです。

この包括的事実は、死も葬りも復活もすでに「キリストとともに」なされているということです。

さらに驚くべきことに、私たちのいのちそのものが、「キリストとともに昇天し、神の右の座に着けられてしまって、すでに完成されている」という事実です。

この事実をあなたが信じることで、「包括的な私たち」となるのです。

【新改訳2017】
エペソ人への手紙2章6, 8節
6

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。


8

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

ここでは、「キリストとともによみがえらせ」、「ともに天上に座らせてくださいました」とあります。

「よみがえった」ことも、「天上に座った」ことも、すべてキリストとともになされた過去の事実です。

ともによみがえるためには、私たちがキリストとともに死んでいなければなりません。

また、ともに天上に座るためには、私たちがキリストとともに昇天していなければなりません。

私たちは、キリストの中に取り込まれることによって、キリストとともに包括的に死に、よみがえり、昇天し、御座に座らせられており、キリストにある私たちのいのちはすでに完成されているのです。

これは驚くべきことではないでしょうか。

霊が回復することで、私たちの心は新しくされ、やがてはイェシュアのように時間空間を超えた「からだ」とされて、永遠に神に仕えるからだとされるという保証が与えられているのです。

こんな保証の中に生かされているのですから、当教会では人の生来の誕生日の祝福の祈りはしないことになったのです。

この世では人の誕生日が大切にされますが、教会はこの世に迎合しません。

聖書で誕生日が祝われているのは、エジプトの王ファラオとローマの傀儡であるヘロデ王の誕生日のみです。

教会は、むしろキリストにある新創造の誕生を祝福しなければなりません。

そうでないと、私たちがキリストにあって新創造された者であるという意識が育たなくなってしまいます。

神がなされたことを思うなら、世に迎合してはならないのです。

なぜなら、神の恵みが恵みとならないからです。ですから、むしろキリストにある新しい誕生日を祝い、祝福する必要があります。

【新改訳2017】
コロサイ人への手紙3章1~4節


1

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされた(アオリスト受動)のなら、上にあるものを求めなさい(現在命令形)。

そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。


2

上にあるものを思いなさい。
地にあるものを思ってはなりません。


3

あなたがたはすでに死んでいて(アオリスト)、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている(完了形受動)のです。

(※完了形はすでになされたことがずっと継続していることを意味します。)


4

あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます(未来形)。

ここでの「あなたがた」とは「包括的なあなたがた」です。

また、3節の「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている」とは、私たちのいのちがキリストとともに天において神のうちに大切に「保管」されているという面と、すでに「完成」されているという二つの面があります。

つまり、私たちの霊のいのちも、新しいたましい(心)のいのちも、霊のからだのいのちも失われることなく、すべて天において完成されているということなのです。

そして4節にある通り、キリストが現れるとき(空中再臨の携挙の時、および地上再臨の時)には、そのいのちの花が目に見えるかたちで栄光のうちに現わされるのです。

これは未来形で記されており、これから起こることです。そのようにして、キリストを信じる者は、朽ちることのないからだに変えられることによって、永遠に神に仕える者となるのです。


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