谷川俊太郎の訃報を知って何か書かなきゃとnote. を書いてはみたものの、どこか詩のような空気になってしまった。これはこれで僕の主観ということで良いんだけれど、書きたいことが書ききれはしなかったので改めて書いていこうと思う。 僕は谷川俊太郎の言葉に育てられた。 でもそれは日本中のおおくの人が感じていることだと思う。谷川の詩は教科書に載っている。絵本の文や翻訳も多く手がけている。歌の歌詞も書いている。まさに世代を超えて、みんな谷川の言葉に育てられてきた。僕はそういうことを言い
今朝、思いがけない訃報に思わず声をあげた。 カムチャッカの若者は今日もきりんの夢を見ただろうか。 メキシコでもニューヨークでもロンドンでも アゼルバイジャンでもエチオピアでもグアテマラでも 変わらず朝ははじまっていく。 ちなみに僕の住んでいるところではもうすでに朝はリレーされていて、まもなく次の地域にバトンは渡される。 そうやって手から手へ、たしかな感触をもってバトンは渡されていく。 生きるということは、受け渡していくことだ。 そうやって僕らは地球をうすいベールでくるんで
吹奏楽部の顧問をさせてもらっていたころ、指揮法の多くをグスターボ・ドゥダメルから学んだ。 もちろん直接ではない。動画を見て、音源を聴き比べ、彼の考えに耳を傾けた。もちろん指揮法の本も読んだし、レッスンの先生からも教わった。けれど多くの大切なことをドゥダメルから学びとった。ぼくの師である。 今日、ちょうど休みだったので彼のドキュメンタリー映画『ビバ・マエストロ!』を観に行ってきた。映画館はアップリンク京都。ミニシネマだ。箱の規模感もここちいい。自分で予約した前から2列目の席は
すきな詩人がみんなおじさんという問題。 問題というわけではないのだが、たんなる偶然だとは思いたくない。どうしてか。 エックス(旧Twitter)にこんなポストがぽろりと転がり込んだ。 びりびりと、身体に稲妻がはしる感覚があった。 妻の顔が、子どもの顔が、愛するねずみの顔が、そして、何人かの親しい友人の顔が浮かんだ。 ブルデューによれば、稲妻がはしる感覚などほんとうはないということだが、その感覚はたしかにあった。あくまで感覚的に。 情報化社会において、少なからず名の知れた
ぼくにおける、好きな詩人がみんなおじさん問題。 前回で書ききるつもりが、時里二郎だけで1本になってしまった。 だから その つづき。 先日、大阪の茶屋町にある丸善ジュンク堂でのこと。 若い詩人の、といっては失礼かもしれないが、いまをときめく詩人の詩集が読みたくなった。Amazonもいいけど、本屋に行きたい。といって町の本屋さんでは、詩集はすこしものたりない。丸善ジュンク堂に行けば何かしら出会いがあるだろう、そう思って足をはこんだ。 予想は微妙にはずれた。 最果タヒの特集棚
心惹かれる詩人が、みんなおじさんという問題がぼくにはある。 おじさんがいけないわけではけっして、ない。ぼくだっていいおじさんだ。おじさんがいやじゃないってことはわかってほしい。誰に? 先日、といっても半年くらい前になるが、大阪の葉ね文庫さんに行った。葉ね文庫さんは詩人の西尾勝彦さんに教えてもらって訪れたのがはじめだ。ぼくは葉ね文庫さんでは目が合った本を連れて帰ることにしている。たくさんではなく、1冊か2冊。そのときばっちりと目が合ったのが現代詩文庫『時里二郎詩集』だった。
黙って話を聞くことは良いことなのか 黙って話を聞くことは良いことなのか。 そんな疑問をずっと抱いている。たしかに自分が話しているときに、私語をされたり、話を聞いてくれていなかったりするとなんだか悲しい気持ちになる。でもそれは「人の話は黙って聞ききなさい」ってしつけられてきた結果生まれた、僕の個人的な価値観だ。前を向いて黙って聞かなければならない。あるいは、聞くふりをしておかなければならない。だから自分も、黙って聞いてほしい。聞いてなくても。 ほんとうに? たしかにみんなで
筑波嶺の峰より落つる男女川恋ぞ積もりて淵となりぬる / 陽成院 下の句「恋ぞ積もりて淵となりぬる」が驚くほどストレートで驚く。 男女川の比喩ということにはなっているが、上の句がなくても十分に想いが伝わってくる。和歌としては、もしかしたら決して上手くないのかもしれない。直球なラブソングだ。むしろ上の句の筑波山の景は後付なんじゃないかとさえ思えてくる。 実際この歌は、陽成院の実際のラブレターであったようだ。後撰集の詞書に「釣殿の皇女につかわしける」とあるらしい(一次資料には当
まいど、ナギです。 昨日はこどもの日。 ちまきも柏餅も忘れてたけど、妻の提案で菖蒲湯をすることに。 しょうぶゆ。 僕の記憶のかぎりでは、子どもの頃に菖蒲湯に浸かったことなんてない。そういえば、お風呂のお湯になにか浮かべる系はあまりやらなかったな。入浴剤を除いて。 調べてみると菖蒲湯っていうのは特に効能うんぬんはないようだ。 漢方の効能で肩こりや腰痛に効果があるともいわれるみたいだけど、まああたたかいお湯に浸かっているのだから多少は緩和されるだろう。僕自身は、漢方って信じて
おじさんはなにかと気をつかう。 言動ひとつで何とかハラスメントとか言われかねないし、そもそもおじさんというだけで嫌がられたりとかもありうる。僕は自分がおじさんであることを嫌だとは思っていない。むしろおじさんで良いと思っている。 さて先日こんなことがあった。 同僚の若い女性が出勤時に背負ってきたリュックに目がいった。別に僕は日ごろから人のファッションを逐一チェックしているような人間ではない。もちろんあのTシャツかわいいなとか、あのシャツどこのブランドだろうとかは思う。けれど
まいど。 こくごのせんせのナギです。 新学期ですね。 新しいクラスは生徒も期待と不安でどきどきですが、先生だってどきどきです。 ただ先生はひとえに胸を高鳴らせているわけにもいきません。なんせ忙しいんです。新年度は情報処理、事務作業の洪水。 それでも教室で何をするか考えねばなりません。 (そもそもこれを読んでいる暇もないかもしれません) 新学期のクラスでやってみたいコミュニケーションワークを紹介します。 春ですし、春っぽいやつを。 みんな "で" 短歌をつくろう!
まいど。 こくごのせんせのナギです。 月曜日ですね。 月曜日って「Blue Monday」だったり「雨降りの月曜」だったり、どっちかっていうとブルーな憂鬱な感じで描かれることが多いように思う。 現に月曜日はブルーだ。 始まりの日。 月曜日はいつだって勝手に向こうからやって来る。求めていなくってもやって来る。音もなく。それでいて厳然に。 ちょっとはこっちのタイミングにも合わせてくれよと思うけれど、そんなことにはお構いなしだ。そうやって何十年も、何百年も(あれ、曜
まいど。 ラジオの更新がまもなく再開できそうだ。 「変態国語」と銘打って始めたラジオも3年目。今年の5月で4年目をむかえる。自分としてはもっと良いものを、クオリティの高いものをと満足することなく配信をしてきた。けれど、一度立ち止まってこれまでの道程を振り返ると、結構やってきたんやなって自分を褒めてあげたくなる。 そうだ。これでも平日毎日配信を心がけて続けてきた。 たまに1ヶ月とか数週間とかお休みすることもあったけれど、日々何話そうか考えて、話の筋道を立ててメモしてと、
まいど。 ちょっと長い。 19日の終業式で僕の異動が発表されたので、ひとまずfacebookで退職のご挨拶を書いた。しかし、スマホからのfacebook投稿はやっぱりやりづらいのと、あんまり長々書いてもタイムライン上で読みにくいやろがいってことを思ったりしたので、思ったことをあまり書けなかった。なので、完全版(といっても大筋は大して変わらないのだが)をここで綴らせていただく。 香川に来てもう3年というべきか、いやまだ3年というべきか。 本年度をもちまして僕は職
まいど。ナギです。 今日は令和6年最初の新月だそうだ。 そう月の話。そう、あの夜の空に浮かんでるやさしいイエローのムーン。 昔の人からすると新月は月が消えてしまうから、死を連想したり不吉だと感じたりもしたようだ。けれど新月は満月に向かう新たなスタートと解釈することもできる。何もないところからだんだん満ちていって、凛としつつもぽってりと明るい満月を経て、どんどん欠けてなくなってしまう。その様子は盛者必衰の象徴のようでもある。 新月から満月に向かっていくにつれて、月
あけましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いします。 と言いつつも、いろいろなことが立て続けに起こった2024年。これだけ色々なことが起こると、どうしても出来事一つひとつに野暮な意味付けをしたくなる。 意味付けは不安だからしちゃうらしい。 災害にしたって事故や事件にしたって、もちろん良い事だってそれぞれの出来事はひとつの単体として発生する。もちろん人為的に関連性があるものもあるだろうが、だいたいが完結した出来事として発生する。それを客観的に眺めるとより偶