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何者

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小さい頃から、人と違うことをしてみよう精神が根強かった。

それは自分で選んでそうなる結果のことで、その選択をした後で自分は少し人と違っていたのだと気づく人もいる。

個人的見解になるけど、所謂”天才”と呼ばれる人は圧倒的に後者が多い。

圧倒的に前者だった私は何か”違う”ということに憧れていた、それは自分が何も武器を持っていないことに対する反動だったと後で気づくのだけど。

そんな私だけど、最近少し自信が持てるようになったことがあって、結構些細なことだけど自分にとってその発見がすごくプラスに感じたので、ここで少し文章にしてみる....

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武器が欲しくて


「あなたの長所を教えてください」

昔からこの手の質問がすごく苦手だった。

ついでに言うと、昔流行ったみんなで交換し合うプロフィール帳の、”特技”の欄もなんとなく苦手だった。

ピアノ、とかなんとなく書くんだけど、自分の中でしっくりこないのをその度にすごく感じていた。

普通こういうのって特に気にせず書くんだと思う、自分がただ好きなものとか、少し自信があるものとか。

ピアノも普通に好きだったけど、面倒臭い子供だったので、私がやってるこのレベルは得意の中に入るのかな....別に一番に自信があるわけでもないけど、他に特技といえるようなものもないしな....みたいな感じでなんとなく違和感を感じていた。

それなりに習い事もいくつかしていたし、趣味もあったし、少し自分が自信を持てるようなものもあったかもしれない。

だけどそれに絶対の自信を持てない自分がいて、そんな日常会話で真剣に考えなきゃいけないようなものでもないのに、だんだん長所や特技という言葉たちに縛られていった。

本当はみんなもそんなふうに考えていたのかもしれないけれど、友達に渡したプロフィール帳が返ってきて、”特技”の欄に「バスケ」「ピアノ」とかそれぞれ書いているのが返って来ると、その度になんとなく羨ましい気持ちになった。

その時くらいからだっただろうか、なんとなく”自分は何にも持っていない”と考えるようになった。

小学生でなんとなく形成されていたその思考は、中学にあがるとほぼ固まっっていた。

趣味にしてもなんとなく人と違うものを選ぶようになっていた気がするし、それは進学先にまでも影響した。

自分が本当にその道に進みたいから、という気持ちももちろんあったけれど、そのきっかけとか基盤にはいつも”自分には何もないから”という思いがまとわりついていた。

なんとなく人と違うことをしたがる癖がついていたのは、多分そうすることで自分の中に個性を見出して自分だって立派な武器を持っているのだと自分自身に証明したからだったのだと思う。

個性という言葉にもすごく敏感だった、それはある意味で自分を惑わせて考え込ませてしまう呪いのようだった。

その当時ちょうど世間が「みんなと同じじゃなくていい、自分の個性を大切に!」と謳い始めた頃で、私はかなりそれに惑わされていた。

きっと普通は個性を持っていて周りと違うことに悩んでいたような人たちがその言葉に勇気づけられるもので、だけど私はその言葉によって変に触発されてしまい、逆に自分には個性がないと焦ってしまっていた。


「あなたの長所を教えてください」

冒頭のこの質問だけど、面接にしてもなんにしてもこの手の質問には大ダメージを受けた記憶しかないので、高校在学中はこの質問に答えられるようになることを目標にした。



だけど高校を卒業しても、私はこの質問に答えられるようになっていなかった。

私はなんの武器も持っていないというマイナスな感情がまたまとわりつくようになっていた。




私はわたしを視る


本当に人生とは不思議なもので、よくわからないタイミングで案外悩みの答えが出てきたりする。

皮肉なことにそれは自分が苦しんだ経験から導かれたりするものだ。

私の場合、まさにそれだった。

少し話が逸れるけど、劣等感などのネガティブな感情がモチベーションになって頑張れる人と、向上心などのポジティブな感情がモチベショーンになる人がいると思うけど、私は圧倒的に前者だ。

世間的にみても、前者の人の方が多いんじゃないかな。

向上心はかなりあると自己分析しているけど、その根本をよくよく考えてみたら、それはいつも悔しい気持ちとか苦しい気持ちとか、その負の感情をバネにして成り立っているものなのだ。

話を戻して、結局何が言いたいのかというと、自分の強みとか個性とかが、自分があまり思い出したくないような記憶から見つけられたのだということだ。

そういう瞬間はつい最近私に訪れた。

思い出したくなくて、その思い出に鍵をかけておきたくて、あんまり掘り起こさないように自分の心の中で背を向けてきた苦い思い出だったけど、その時のLINEのトークとかをたまたま見る機会があって、一気に記憶が蘇ってきた。

その思い出の中には苦しい状況に置かれても信念とかを曲げなかった自分がいて、もう少し違う選択をできていたら、と思うこともあったけど、やっぱり自分がした行動は自分の信念を貫き通せていて、間違っていなかったんだと思った、少なくとも自分に嘘をつかない行動ができた。


その思い出との再会から、少し自分に対して前向きに考えられることが増えていった。

自分がしてきた選択のこと。自分なりの生き方。自分らしい考え方。

武器はまだ持っていないかもしれない。あえて手に入れるようなものでもないのかもしれない。

でも、自分らしく生きれてそれに満足できていれば、武器がなくても何も恥ずかしいことはないんじゃないか。

自分が今幸せだと思えて、自分のした選択を後悔していなかったのなら、それでいいのではないか。

後悔したっていいのかもしれない、自分らしく生きれて心地よければ、自分を大切にできていれば、それだけで十分に幸せで誇れることだ。

これまでずっと何者かになることに執着してきたけど、何者かにならなくてもいいし、なってもいいし、結局どっちだって自分が満足していればそれでいいんだと思う。

自分の武器欲しさに行動して選択してきたことがたまに虚しいと思うこともあったけど、そんな自分がいたから、そんな過去もあったからこそ少し遠回りして今の思想にやっと辿り着けたのかなと思っているから、なんだかんだ苦しんできた自分にとても感謝もしている。

あの時の私にもし伝えることができるなら、もしタイムマシンに乗って悩み続けている私に会えるのなら、パラレルワールドで自分を卑下している私に出会えるのなら、絶対に言いたい、全部大丈夫だし自分らしく生きていれば、勝手に自分の個性は見つかるからって、何も変わらなくていいんだよって。

長所も短所も全部自分じゃん!アイデンティティなんだよ!って言いたい

全てがうまくいく人生なんてないから、不器用な私には特に難しいんだから、これからも少しづつ悩みながらでも自分に向き合っていけたらいいな。

大人になることにずっと反感を持ってきたけど、こうやって日々気づけることが増えていって成長できているのを感じると、歳を重ねるのも悪くないかもな…と思うわけです。

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気がついたら就活のことも考えなければならないタイミングのところまでいつの間にかきてしまったわけだけど、就活では大切なのはそれこそ「あなたの長所はなんですか?」の質問にどう上手く答えるかだ。

それを全く知らずとも、今まで生きてきた中でもう何年もそれについて考えてきたのだから、もはや得意分野だと言ってしまってもいいのかもしれない。



「あなたの長所を教えてください」

自分のことが少しずつわかってきて、今なら前よりも少しだけ自信を持って答えられそうな気がするのが、なんだか少し誇らしい。


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