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砂の楼閣

 指を差し込んで勢いをつけて跳ねのけ、間髪いれずに逆の手を差し込みまた掻く。左右交互に、リズムをつけて。砂浜にできたささやかなくぼみは、ある程度深さができると壁面が耐え切れず落ちてくる。また最初から掻き出し始める。より深いところまで掘れたと思ったら、崩落する。また掻く。
 焦燥感。しかし奇妙に安心する。
 焦りは、私に近しいものだった。
 縦に深くしていくべきか、それとも横か。海水を少し入れたら補強されるのだろうけれど海の水が鳴る音は手が届くほどには近くない。顔を上げる気すら起きず、ただひたすらに砂を掘り続ける。指を動かせば動かすほどに、頭の中は空っぽになっていく。視界が狭まる。波の音が遠ざかる。


 砂浜にぺたんとすわり込んでどれだけの時間がたったのだろう。一日や二日のような気がしない。時間の感覚をすっかり失っていた。私の黒いスカートと剥き出しの脚は砂でまだらになり、少し長くなった爪の中にも砂が詰まっている。ざらついた砂の感触は不快で、それでもやめられない。ざくざくと砂地に爪を立て、憑かれたようにひたすら手を動かす。意識は時折ふわりと浮上して、砂の不快さに気付いたり考え事をしたりするのにすぐただ砂を掘り続ける集中状態にもぐっていく。やめようと思ってもやめられなくなっていた。拷問のような時間。ただひたすら、同じことを繰り返す。
 もしかして、なにか罰を受けるようなことをしていたのだろうか。過去に。
 なぜこうなってしまったのか、なぜこんなことをしているのか。
 多数の「なぜ」が脳裏にひらめき、泡沫のように消え去っていく。ただただ、無意味に、私は砂にまみれてもがき続けた。
 
 風は涼しいのに遠くの空は光が乱れ飛んで、暑くなりそうな予感をはらんだある夏の日の朝。女がやってきた。幽霊じみた女だった。どこもかしこもが細く端整にできていて、肌の色は透けるほど白い。唇ですら血色が薄く、髪と目だけにようやく淡く色がついているのだが、その目ですら青みがかった灰色をしている。白いブラウスに、白い長いスカート。顔に影が落ちるように掲げられた日傘まで白い。女はいつの間にか、そこにいた。出現したといってもいい。視線を感じて振り返ったさきに、彼女がいた。不思議なことにそのときばかりは「習慣」を止められていた。さきほどまで砂を掻いていた手を止めてだらりとたらし、呆けたように、女を見つめた。砂堀りに熱中していなくたって、人の気配なんてなかなか読めるもんじゃないのに、少し前から彼女だけの世界に闖入しようとするなにものかを感じて、右側の耳の後ろにとげが刺さったような気持ちがしていた。このひとだったのか、と思った。彼女は白いサンダルでさくさくと砂を踏み、私の横に立った。日傘の影に隠れて薄ぼんやりとしていた表情が、近くで見える。その淡い色に似つかわしくなく、くっきりと意思を宿した女の視線。私が見ていることなどどこ吹く風といった風情で海を眺め、ほうっと吐息を吐き出す。
「ねえ、あなたはどんな海が好き?」
 海を見つめたまま、女が言った。私は答えなかった。ただ無言で彼女を見上げた。彼女がこちらを見て、ゆるりと目を細める。微笑むことでその瞳の色が和らげば、さきほど強い印象を残したのが嘘のように彼女はもろく、薄く、病弱そうに思えた。
「私はこんな朝の海が好きよ。こういう、雲が薄くて、風で波が少しざわついてる感じ。晴れにも、嵐にも転びそうな、こういう朝の海の雰囲気が好きなの」
 当惑した。どう答えたらよいのかわからない。ただただ困惑していると彼女は手にしたちいさな籐籠のバッグから白いハンカチを取り出し、それを広げて勝手に私の隣に座りこんだ。そしてこちらが断ることなど全く想定していないような声音で言い放つのだった。
「ご一緒してもいいかしら?」

 それ以来、二日とおかずに彼女は通ってくるようになった。他愛ないことばかり二人並んで海を見ながら話した。互いに、出身や、生まれ故郷や、年齢や、家族や、そういった自分の来歴や現在についての話題は巧妙に避けていた。
「名前はなんて言うの?」
「沙綾」
「きれいな名前」
 私たちが、自分たち自身について交わした言葉はただこれだけだった。不思議なもので、それがなくとも話題がぽつりぽつりとつながっていく。彼女と話しているときだけ私は『習慣』と離れていられた。いつごろはじめたのかは忘れてしまった。ただ、幼いころから、砂を掘るのは私のつらいときの癖だった。そうしていれば何も考えずにいられた。まさかその『習慣』を永遠に思える時間、こうして繰り返すことになるとは少しも思っていなかったけれど。
「海はね、母性に喩えられるのよ」
 くるりくるりと手の中で日傘の柄を回して、リズムを合わせるようにして彼女は言葉を紡ぐ。
「生命が誕生したのも海だといわれている。大昔、海の中で細胞に似た構造ができて、自己を複製して増えていった。 やがてそれのバリエーションの中のひとつが、酸素を生み出すようになった。それを糧に生きていく生き物ができて、地上に暮らすようになった。だからかしらね、海を胎水に喩える人もいる。不思議よね。ただの水なのに。でもたしかに、こうして海を見ているとなんとなく安心する」
 大抵私は言葉少なで、彼女がこうして思いついたことをつらつらと話すのを聞いている。
 彼女が貝を拾うのにつきあって海岸線をたどることもあった。彼女はうつむきながら歩き、ひとつ、またひとつと腰を屈めて貝を拾っては、手持ちの小さな袋に入れていく。一定以上に近づきすぎたり離れたりしないように注意しながら私はその後ろをぶらぶらとついていく。海から見たら私たちはいったいどんな風に見えるのだろう。真白い服に身を包んだ真白い彼女と、黒一色の服の私。私は彼女の影のように見えるだろうか。そんなことをぼんやりと考える。波の音が、答えるように高く鳴った。確かに私は、影のようなものなのかもしれない。自分の意思を持たず、過去も忘れてただひたすらに砂を掘る。どうしてこうなったのかすら考える力が欠落している。つまらない感傷にひたって足元の砂をつま先でいじる。するといつの間にか彼女が傍にきている。そうしてきれいに笑って手提げの中を見せたりするのだった。
「助けを求める手を、振り払ったことはある?」
 ある日、彼女は不意にそんなことを言った。姿勢のよい彼女には珍しく、砂浜に広げたハンカチの上に座り、背をかがめて膝を抱えている。
「どういう意味?」
「もちろんそのままの」
「わからない」
「じゃあ苦しんでいる人をただ見ているしかなかったことは?」
「それはある」
「私も、そんなことばかりの人生を送ってきた。この目のせいで」
 彼女の目。現実味のない、青灰色の美しい目。まるで冬の朝の海のような冷えた色をした彼女の瞳が私は好きだった。思わず横に座る彼女を覗き見る。彼女は少しだけ悲しそうに私に向かって微笑んだ。そして視線を手に落とす。彼女の左手の薬指には最近までそこに指輪が嵌っていたのだろうことを思わせる黒ずんだ二本の線があった。彼女はその線をそっと撫でる。
「でもね。もうやめにしたの。見えてしまうものは見えてしまうんだもの。じゃあそこからどうすればいいのかを考えるほうがずっといい。目を逸らし続けるより。あの人には、なにもしてやれなかったけれど……」
 すこしうつむいた彼女の表情は、寂しげに見えた。指はずっと、薬指のあたりをうろうろとさまよっている。私と関係ない世界で、傷ついたり決意を固めたりしている彼女のことを、もっと知りたいと、初めて思った。生まれてからこれまで、知らなかった気持ちが自分の中で育ちはじめていた。
 
 指を差し込んで勢いをつけて跳ねのけ、間髪いれずに逆の手を差し込みまた掻く。左右交互に、リズムをつけて。砂浜にできたささやかなくぼみは、しかしある程度深さができると壁面が耐え切れず落ちてくる。また最初から掻き出し始める。より深いところまで掘れたと思ったら、崩落する。また掻く。
 私の肩にぽんと手が置かれた。それでも私は振り向けない。ただひたすらに目の前の作業に没頭する。最初は何もわからなかった。だが徐々に肩に置かれた手が私に体温を伝えるにしたがって恐ろしくなっていく。体の制御がきかない。彼女が、そこにいるというのに。
「沙綾」
 名を呼ばれて、彼女ではなく、忘れていたはずの母の顔が浮かんだ。
それはいつも唐突にはじまった。
「さあやは本当にかわいいわね。お人形さんのよう」
 たとえば朝、パジャマから服に着替えるとき。細い指先で丁寧にひとつひとつボタンが留められ、幼かったころの私に白いフリルのついたブラウスを着せ終わると母はうっとりと私の髪を撫でる。
「真っ黒で湿ってるみたいに重たくて、お母さんはさあやの髪が大好きよ」
 そのやわらかい手つきが私も大好きだった。私は年齢に似つかわしくなく寡黙な少女だった。少し視線を伏せてその手の感触をじっくりと感じながらしかし心の中は不安でざわめくのだった。あと三分もすればやさしくて満ちたりた母とこの小さな部屋を出てデパートにいくのだ。何を不安になることがあるのか。きっと大丈夫。今日こそはきっと。しかしいつも期待は裏切られた。ぎゅっと母に抱き寄せられる。それが合図だった。頭上から、堪えきれなくなったように嗚咽が聞こえ始める。
「さあや。さあやは私を捨てないでね。どこにも行かないでね。お嫁になんかいっちゃいやよ。ずっとずっと、私のことを好きでいてね」
 そうして私は無力感に満たされる。こんなときはどんな言葉をかけても、抱きしめ返しても、母は私が見えないみたいに泣き続ける。今日のお出かけはきっと中止になるだろう。カーテンを閉め切って、涙の雨の降る部屋の隅でひっそりと絵本を広げる。そして泣き疲れて眠ってしまう母を置いて、ひとり海へと出かけるのだ。

 不意に強い力で体を引かれた。よろめいて、背後にしりもちをつく。そこに白いものが覆いかぶさってきた。彼女だ。目の前がちかちかと瞬き、ふかく息を吸えない。口をぱくぱくと開閉して荒く息をつく。暖かい手が、あやすように背中を撫でていく。冷え切った体に、彼女の体温が染みとおっていく。目を閉じた。徐々に呼吸が収まっていく。
 どれだけそうしていただろう。彼女が体を離し、気遣うように私の顔をそっと指先で触る。大丈夫、と伝えたくてこくりと頭をたてに降った。内心はとても落ち着いてはいられなかった。いつかは彼女に触れられたことすらわからなくなってしまうんだろうか。とどまろうとする代償に、こわれていくのだろうか。そう思うと全てに合点がいった。震えが収まる。なじんだ無力感に支配される。


 唐突に彼女が勢いよく立ち上がった。その顔は、まるで私を勇気付けるみたいに力に富んでいる。
「さあ、お城を作りましょう」
目をしばたたかせる。言われたことを理解するのに少し時間がかかった。お城よ、お城。彼女は何度も繰り返した。
「お城?」
「小さいころ、作ったことない?砂の城」
 私は首を左右に振った。誰かと海に来ることはほとんどなかった。だから教わったこともなかったし、写真でいつかみたことのあるそれは、専門家がつくるようなもので、自らの手で作れるものだなんて思いもしなかった。
「なかなか達成感があるのよ。無心になれるし」
 言いながら彼女はもう周りの砂を集めては山と積んで、砂遊びをはじめていた。引きずられるように私も、やらなければ、と思った。最初、頭が真っ白で、肩の動かし方ひとつわからなかった。ゆっくりと、ぎこちなく、立ち上がる。しゃがみこむことに慣れて曲がった膝を伸ばすと、鈍い痛みと痺れが走った。しかしそれがなぜだか心地よい。しばらくぼんやりと彼女の手の動きを見守っていた。ふと、彼女がこちらを向く。心臓がびくりと縮まる。
「ほら!何やってるの。手伝って!」
 彼女のはりのある声に後押しされ、私は砂の山の傍に寄った。見よう見まねでぺたぺたと山の側面を触り、固めていく。それからというものの、私は彼女の指示の元、砂山から壁を削り取ったり、またくっつけたり、海に行っててのひらに水を汲んできたりと忙しく立ち働いた。私も彼女も、すぐに砂まみれになった。彼女には珍しく額に汗が浮かんでいる。垂れてきたそれをぬぐうと、砂に汚れた手のひらが頬を掠め、彼女の顔にまで砂が飛んだ。彼女はそれすらも楽しそうに笑ってみせた。彼女は今まで見たどんなときより若々しく、生き生きとして見えた。いつもの白く希薄なイメージは消え、熱がほとばしって彼女の薄い体を一回りたくましく見せているようだった。私が拾ってきた木の棒やガラスや空き缶や、そういったガラクタから彼女は見事なかたちを生み出していく。窓、屋根、壁……魔法のように砂から城が立ち上がっていく。
「できた」
不意に、声が降ってきた。私は乾いて崩れかけていた壁面をなでつけて補修する手を止め、声の方向を見やる。彼女が立ち上がって、私の手元を見下ろしていた。彼女の顔から目を放し、砂のかたまり全体に視線を走らせる。そこには、決して綺麗な形ではないけれど確かに西洋の城に似たものがあった。目を見張る。思わず息を止めてしまっていた。同じ、無心に目の前のことにだけ目を凝らしてひたすらに手を動かすのでも私が今までやってきたこととは全く意味が違っていた。不思議だった。
「すごい」
呟いて、ゆっくりと彼女に目を向ける。額に浮いた汗をぬぐいながら、彼女は優しく微笑んだ。近づいて、そっと私の手をとる。それは、砂まみれでざらついていて、しかしとてもあたたかかった。
「この手はこんな風にも使えるのよ。知っていた?」
「……私が作ったわけじゃない」
「いいえ」
ぎゅっと手を握られた。思いのほか強い瞳で瞳を覗かれる。
「……いいえ」
もう一度繰り返すと彼女は砂の城に目を戻した。二人並んで、砂の城を飽きずに見つめた。
「あなたが好き」
つぶやくと不意につないでいた手に力が篭ったのがわかった。彼女の顔を覗き込む。驚いたような、泣きそうな、奇妙な表情で彼女はこちらを見ていた。その瞳の色が徐々に決意を固めるかのように刃の色になっていくのがわかった。
「私もよ」
彼女は決然と、つぶやいた。
「だから、もう執着していてはだめ。行かなくては」
 波の音が聞こえなくなった。彼女の声だけが、わんわんと私の耳の中に響いた。
「どうしてそんなことを言うの」
 かろうじて搾り出した声は震えていた。
「あなたのそばにいられればそれでよかったのに」
 彼女は重々しく首を横に振った。
「叶わないことは、わかったでしょう。それに、最初、あなたが執着してたのは私じゃなかったはずよ」
 彼女は出会ったときと同じ、強い意思の光る瞳で私の瞳をのぞきこんでくる。
「輪廻の中に戻るの。そうすれば、いつか出会える。あなたがほしかったものも、きっと手に入る。大丈夫、やりかたはもう、教えたでしょう」
 言われれば、もう知っているような気がした。私の、みじかかった今の生ではうまくつかめなかった、方法論。あきらめるのではなく、ひとつひとつ考えながら手を動かす。光のほうに向かって。明け方の海でよく見るような、薄明るい、奇跡のような淡い光が、私の心を満たした。そう思うと、私の体全体にまで、それは広がってふんわりと私を溶かしていく。そっと、つないだ手を離した。何も言えなくなって、彼女をじっと見つめる。彼女もその色素の薄い瞳で見つめ返してくる。迷った後、そっと彼女の栗色の髪に触れた。彼女の表情が、泣きそうに歪んだ。
「さようなら。またいつか」
『また』が訪れる可能性の低さを知っていてもそう告げた。それは少し、祈りに似ていた。


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