港町の女
秀峰駒ヶ岳を望む凪の内浦湾には、朝早くから無数の磯船が浮かび、
漁師達が海の底を覗き込んでいます。
あの磯船は何漁なんですか?宿屋の女将に尋ねると、
「今時期なら、ウニも終わったし昆布ですかね。」との返事でした。
「この辺りは、漁と一体のまちだから、漁が駄目だと、
みんな駄目になるんです。その代わり大漁だと、もう!凄いんです。
漁師さんたちは、派手好きだから、箱館からコンパニオンさんを呼んで
宴会が始まるんです……。」
令和2年11月某日。
道南にある老舗旅館は、新型ウイルスの為
すっかり客足が途絶えており、前日でも容易に予約を取る事が
出来る状況でした。
到着すると、大宴会もできる立派な旅館なのに、
宿泊客は、自分たち以外にもう一組だけ。
女将さんが「良かったらコーヒーを飲んで行きませんか?」と、
プライベートな部屋に通してくれ、内浦湾に面する漁師町の事を
聞かせてくれました。
「昔はお酒を呑んでも車を運転していた時代があってね、
年末になると連日宴会が開かれ、旅館の周りは30~40台の車が
びっしりと停まり、函館から芸者さんが来てくれていたもんなんですよ。
芸事っていうのは、やっぱりある程度お年を召した芸者さんの方が
見応えがあってね。それはもう、素晴らしい宴会だったんですよ。」
そう語る女将さんは70代後半くらいでしょうか。
同性の私から見ても、どこか艶っぽい雰囲気を醸し出しており、
何故か「デカンショ節」が脳裏をよぎります。
デカンショ節とは、兵庫県丹波篠山市の民謡で、代表的な歌詞で、
〈デカンショ デカンショで半年暮らす あとの半年 寝て暮らす〉
といった文句があります。
旅が好きで旅館を始めたという女将さんの生き方が、
この節を思い出させたのかもしれません。
「あの人たちも、可哀そう。こう仕事がないと、
きっと困っていると思うの……。」
あの人たちとは、花街を彩る女性たちのことです。
今みたに女性が職業を選べるようになったのは、
戦後やや暫くしてからではないでしょうか。
多くの女性たちが生活の為にお金を稼ごうと思ったら、
港でモッコを担ぐか、工場の女工さんになるか、花街へ出るか……。
宿屋の女将と談話した後、私は内浦湾添いに移動し、
次の港町へと向かいました。
そこは、道南森町にある尾白内という港町で、
旧道には、もし残っているのなら見てみたいと思っていた、
かつての工場群が現存していました。
冷蔵工場に水産加工場。
木造建築で出来た工場は、今はどれも使われてはいません。
けれども、その佇まいは、この町を支えていた威厳のようなものが
感じられます。
こうした工場には、家族を支える為に出面取に通っていた
少女たちが、たくさんいました。
そして、13歳であった佐渡君代(仮名)も、その一人でした。
君代の父親は、地元で漁師をしていましたが、
ある時、突然「北洋船に乗る」と言いだし、
身重の母親が反対するも函館の港から出航しましたが、
そのまま帰ってくることはありませんでした。
父親に北洋漁業へと勧めた請負業者の男が
北洋船の無線から入った内容を、佐渡家に伝えに来たのです。
小さな磯船から、カムチャッカやベーリング海峡を回遊する
大型船に乗り換え、一旗揚げようとした父親の訃報が届いたのは
出航から僅か3カ月後の事で、身重だった母親が
一人で4人目の子供を産んでから、2カ月後の事でもありました。
※ 川嶋康男「消えた娘たち」より。
私は、川嶋先生より、この本の内容が実話である事と、
その後の君代の話をお伺いし、彼女が育った町を
一度訪れてみたいと思っており、ようやく足を運ぶことができたのでした。
つづく。