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売れっ子遊女・おいし

 薄野遊郭で働いていた多くの遊女は、
その名を残すことも無く、朝露の如く何処へか
消えてしまいました。

 けれども草創期の薄野遊郭で、売れっ子遊女として
その名を本州にまで轟かせた女性たちがいました。

 今日は、その中の一人である「おいし」の話を
したいと思います。
薄野遊郭に関する資料は非常に少ないのですが、
彼女は、それらの資料の大半に記載されています。

 源氏名は「台鍋」(だいなべ)といい、
中川良助という楼主が経営する越中屋の女郎でした。
元々越中屋は、石狩で漁師相手の宿屋兼女郎屋だったと
いわれております。

 彼女は生まれながらに片方の耳が欠けおり、
また、どの文献を見ても稀にみる醜女で、
漁師が食べる、アラやなどといった
店では売り物として出せずに捨てる部分を使った           「台鍋」といった大味な料理を捩り
そうした源氏名となったと言われています。

 江戸の吉原や京都の島原といった遊郭ですと、
高額なお金を出し、一夜一夜の夢を見るような
浮世の世界が求められていましたが、
北海道の遊郭では、お客が漁師や土工人夫だった為、
どちらかというと人肌恋しくて足繁く通う
男性が多かったのではないでしょうか。

 開拓労働の厳しさや、色々な地域から集まって来る
土工さん達は、お國訛りで言葉が相手に上手く伝わらず、
そうしたストレスが開拓の進捗に影響を及ぼしていたとも
言われています。

ですので、話し上手、聞き上手、床上手などといった
そうした女性の方が安らぎを与えていたのかも知れません。

 そうした親しみ易さからなのか、
土工たちの間では「からからがんと、投げた台鍋
耳欠けた」といった流行歌まで歌われていたそうです。
さて、これは彼女に対する男たちの
愛情表現だったといえるのでしょうか。

 東京から出張に来る役人の間でも、
新しくできた薄野の遊郭では「台鍋」という
大した人気のある遊女がいると評判になったそうで、
越中屋に行き、台鍋を指名するも
楼主は「台鍋ならば決してお目に懸ける程の
品物ではありません。お座敷には出さない品物なのです。」と、
断りを入れる始末。

 見せないと言われると、一層見たくなるのが
人の心理というもので、しつこく迫り仕方がなく
厭々ながらも座敷に顔を表す台鍋なのですが、
評判の顔には、接客用の白粉が塗られており、
客どもの間では、ドッと笑いが起こり
座が盛り上がっていたとの事でした。

 この時代の男性たちは、見せしめや晒し者にする
といった事が余程好きだったのでしょうか。

 理由はともあれ、出世頭として店に利益をもたらした
おいしは、楼主・中川良助の計らいで、髪結いさんの元へと
嫁いだのですが、世間では床屋の鬢付け油を揶揄し
「台鍋が油鍋に出世した」と、新たな囃子歌を
歌っていたそうです。


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