見出し画像

薄野交番物語①

「ススキノ」といえば、
東北以北最大の歓楽街として名高いですが
「薄野交番」は、同じくらい
その名を馳せているのではないでしょうか。

 薄野交番が南4条西3丁目に新設されたのは、
1951(昭和26)年の事になりますが、
札幌警察発足の歴史は古く、
明治4年からと言われています。

 薄野遊郭が設けられる1カ月前の明治4年6月に、
開拓使刑法係が発足されました。
当初は、2名の係員と、他数名の手先が、
警察、監獄、裁判などの業務を担当しいたそうです。

 翌年の明治5年に開拓使営繕係の所轄下にいた
「正田の竹」と称する人夫と、妓楼・昇月楼の遊女
晴山が心中事件を起こしました。
この時の営繕係とは、開拓使の施設や土木工事を
行う人々の事を指します。

 当事件が薄野第1号の心中であったといわれており、
本来は、刑法係によって検視を行う手順となっているのですが、
営繕係は、規則を無視し早々に遺体を処理してしまったのでした。
この事で刑法係と営繕係との間に軋轢が起こってしまいました。

 そして、7月。
営繕係の人夫が、高瀬兼次郎が経営する妓楼に登楼した時に
持ち合わせが足りなくなり、持ち合わせていた毛布を
取り上げられたそうで、解放され人夫小屋に戻ってから
仲間に吹聴して回ったところ、荒くれ者の人夫たち
200人程が、高瀬の妓楼で仲間の鬱憤を晴らしてやると
狼藉を働いたのでした。

 騒ぎを聞きつけ駆け付けた刑法係の橋爪次郎らは
刀を振り回し騒動の沈静化を図ったのですが、
返って人夫たちを刺激してしまったのです。

 大乱闘の末、袋叩きにあった橋爪は、
大怪我をしてしまいました。

 開拓使は、この事件により、邏卒隊(警察の前進)の
設置の必要性を感じ、急いで函館の
邏卒隊に応援を求め、創成通に官舎を設け屯所とし、
南3条西4丁目にも分屯所を設置しました。

 そして「札幌邏卒仮規則」を制定し、
明治5年8月市中の巡回が始まったのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?