尾崎天風(おざき てんぷう)①
その名を教えてくれた御年輩に方々は、
「あれ!あの有名な代議士さんさ!」と仰るのですが、
私には、聞き覚えのない名前でした。
どうやら、尾崎氏は石北峠を開通させることに尽力した
代議士さんだったという事まではわかったのですが、
それ以外の事はわからず。
調べてみると、「ヌプンケシ」という北見市の市史編纂ニュースに
尾崎の事が書かれており、北見市役所に問い合わせてみると、
記事を書いた方を紹介してくれました。
それから、往復書簡を通し、道東時代の尾崎と、
札幌に移り住んでいた時代の尾崎の様子が繋がってきたのです。
尾崎天風は、明治19年に佐賀県藤津郡で生まれ、
明治31年12歳の時に、父親と共に道東にある常呂郡に移住して来ました。
幼少名は「百平」といい、十代のうちは
馬の背に荷物や人を乗せて運ぶ「馬追(うまおい)」や、
馬車を走らせる「御者(ぎょしゃ)」の仕事をしていましたが、
30年代半ばに佐呂間の市街地へと移り料理屋を営んでいました。
大正4~5年頃には、釧路新聞の通信所を開設した記録もあり、
尾崎は、大変器用な人物だったようです。
尾崎が住む道東は、明治後期から網走本線の開通により 木材業界が活況を見せており、
更に第一次世界大戦に伴う木材の需要が、常呂川上流にあった約400平方㎞もある官有地の森林の資源開発を推し進めていました。
原生林が生い茂る官有地は宝の山となり、
土地の買い取りを希望する人々が「払下げ願い」を申し出たのですが、
管理が行き届かない為に、なかなか許可が下りず。
そうした状況を逆手に取り、盗伐をする木材業者たちが現れたのでした。
その手口は、非常に荒っぽいもので、山に火を放ち、
焼木や破損木の払下げ願を出し、許可が下りたら、
その数倍もの木を伐採しまくったのです。
盗伐された木は、杭木や製材にされ、木材業者はボロ儲けをしていました。
この大掛かりな盗伐が町全体の景気を沸かせており、
盗伐を嗅ぎつけた新聞記者が現地に取材に入ったのですが、
「終始酒食の饗応を受け、帰りには千金を握らされて黙殺を頼まれた。」
と、昭和33年発行の「置戸町史」に記録されていますが、
この時の記者が尾崎であったかどうかまでは、記されていません。
大正9年に、北見から札幌に出て来た尾崎は、
赤字続きで経営破綻となった「北海道報社」という新聞社を継承し、
社名を「北海道新聞」(※現在の道新とは無関係)と変えて、 新たな経営者となりました。
この時に住んでいたのが、南7条西2丁目にあった
鴨々堂の並びだったとの事でした。