政治家になった新聞人
馬追から新聞記者へと華麗なる転職をした尾崎天風ですが、
果たして赤字続きの新聞社に出資し経営を立て直すだけの資金は、何処から捻出したのでしょうか。
いずれにせよ、札幌へ出て来た時点で、尾崎が資産家となっていたのは、間違いは無いようです。
昭和11年に北海道で陸軍特別大演習が開催された時に、
時の天皇陛下が百官を率いて札幌に宿泊をしました。
一行はグランドホテル、三井クラブ(現在の知事公館)等を
宿泊先としましたが部屋数が少なく、市内の私邸に分散し泊ったそうです。
当時の首相であった広田弘毅は、五番館の社長であった小田良治邸に泊まり、関東軍司令官を勤めた陸軍大将菱刈隆は、ススキノの豪邸といわれた尾崎天風の本宅に宿泊したと平成19年に北見市より発行された「北見の歴史を見つめる」に記されています。
さてはて、尾崎の足跡が気になる所です。
尾崎が札幌に出る前に道東で発生した大規模な盗伐は、
「置戸山中事件」として置戸町史に記録されていますが、
この事件は、町ぐるみの大盗伐だったとされ、
大正9年に一斉摘発されています。
同年札幌に移住していた尾崎も、この件で検挙されていますが、
何と、尾崎は足尾鉱毒事件や大逆事件で活躍した法曹界の大御所
花井卓蔵を弁護士として立て、大正14年に証拠不十分で、
無罪判決を勝ち取ったのでした。
微かに残る尾崎の資料を拾い集めて読んでいくと、
その人物像は、決して良いものばかりではなく、
釧路新聞時代を知る人からは、
「大言壮語する態度の大きい人」と評価されていたとの記録もあります。
ただ、その大袈裟な言葉を信じる人も少なくはなかったのでしょう。
大正9年、札幌進出、新聞社の立ち上げ、検挙、収監、釈放と
人生の中でも荒波を潜り抜けている最中に、
裁判所の許可をもらい、名を「天風」と変えました。
そして、大胆にも東京へと渡り「土木と労働」という雑誌を発刊しながら人脈を広げ、鉄道大臣の私設秘書よろしく政界進出の動きをしていたのです。
大正11年頃には、「土木と労働」で紹介し、名刺を交わした
永井金次郎樺太大臣との関りを利用し、「木材取引」の利権を手に入れ、選挙運動の資金基盤を確立させたと云われています。
1932(昭和7)年2月、地盤を固めた北海道5区において、
政友会から出馬し、18,511票を得て衆議院議員の席を獲得したのでした。
画像は、鴨々堂から見たススキノの光景 撮影・平成29年 石川 圭子
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