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現代を生きる私たちの話「花束みたいな恋をした」

スポイラーあり

『花束みたいな恋をした(以下、花束)』は一般的に脚本家である坂元裕二の作品だ。職人的作家である土井裕泰が監督というところも大きいが、この映画を見た人なら誰もが思う坂元脚本の特徴によって、この映画は坂元裕二のものとしている。その特徴は主に3つ、固有名詞、モノローグ、手紙である。

二人のモノローグ

一般的な映像作品の脚本において、モノローグは多用すると途端に作品としてのキレが悪くなる。ましてや、二人以上のモノローグとなると、鈍重な話運びに加えテレパシーのような会話劇になりかねないので、基本的には避けるべきものである(例えば、『愛の不時着』はモノローグの代わりに回想シーンを丁寧に挿入することで余計鈍重な作りとなってしまったのだが)。

『花束』の最初のシーンは、有線イヤホンを二人で分けて聞くカップルに対して主人公二人、絹と麦が言及するシーンから始まる。

音楽ってね、モノラルじゃないの、ステレオなんだよ。右と左で鳴ってる音楽は違うの。〈中略〉同じ曲聞いてるつもりでも、あの二人は違う音楽を聞いているの。

物語の順を追っていくに従って、主人公たちも同じようにイヤホンを分け合い、エンジニアにされた話をそのままトレースしているだけというのがわかるコミカルなシーンであるが、この一連のセリフにこの映画の主題がわかりやすく説明されている。

同じ映画を見ても、同じものを食べても、感想は人それぞれ。コミュニケーション一般においての常識を、私たちはしばし忘れてしまう。特に恋愛の期間中においては。

前田敦子のソロ曲『君は僕だ』の詞は、秋元康が今まで得意としてきた、時間芸術としてのポップソング、歌詞の究極系である。ティーンの男女が恋に落ちるとき、多少なりとも陥る錯覚として、恋愛相手を自分と同化させてしまう。共通点を(無理矢理にでも)見出して、一喜一憂し、やがて相手を他者と認識して別れる。きっと、主人公たちは前田敦子のソロ曲は興味ないだろうけど(女優としての前田敦子は一連の黒沢清作品を主として評価する、と言ったスタンスだろう)。

君は僕だ 僕は僕だ 君は君だ

『花束』でも同じように、趣味嗜好がぴったり重なった二人が、やがて二人の間にある差異に戸惑い、別れる話である。劇的なことが起こらない代わりに、小さなずれを丁寧に拾い集め、ドラマメイクするための手法として、二人によるモノローグがある。付き合いたてにも関わらず、どこか諦念を捨てきれない絹。初めて寝た後「こう見えてこの二人〜」から始まる、俯瞰視点で相対性を保つ(あるいは、保とうとしている?)麦。先輩の葬儀に対する二人の向き合い方。Netflixの海外ドラマを一人見る絹。幻冬社の自己啓発本を読む麦。こうした些細な出来事が主人公たちの恋愛を「おわりのはじまり」から「おわり」へと向かわせている。

固有名詞の洪水

人と人は、固有名詞でもって仲良くなる。天気や、好きな色についての会話だけじゃ楽しくない。その固有名詞とは、共通の知人や、近所にある美味しいパン屋でも、なんでも良い。麦と絹にとって、それは押井守だった。

一般的に見て「サブカル」と捉えかねられない固有名詞を頻出させたのは、訳がある。人と人のコミュニケーション、あるいはその齟齬を丁寧に汲み取り、さらに、社会の片隅にこぼれ落ちてしまうアウトサイダーばかりを取り上げてきた坂元裕二にとってこの物語は、SEKAI NO OWARIが流れるカラオケに居心地の悪さを感じ、きのこ帝国やフレンズを歌うことで心の充実を感じる二人が主人公でなければならなかった。でも、何でも分かり合えたかのような二人は、付き合い始めてしばらく経つと、むしろ些細な違いがより目立ってしまう。

テレパシー 目と目で 通じ合えたなら 思うだけの ただの二人

ミツメ『エスパー』ではそうした、わかりやすく倦怠期の男女が出てくるが、この曲がリリースされた2017年末、劇中の二人もまさにすれ違っていた。アキ・カウリスマキ『希望のかなた』を見る二人にその全てが溢れている。麦(菅田将暉)の気だるそうな切れ目と、絹(有村架純)の全てを包み込むような丸い目の対比に、二人の決定的な違いを見出すことは難しくないだろう。彼らはきっと『エスパー』を、それぞれが聞いていたのだと思う。イヤホンを分け合って聞くような、そんな過去のことは忘れて。

彼方からの手紙

坂元裕二の一番のお家芸は、手紙である。手紙に本音を忍び込ませて、たとえ届くはずのない手紙だとしても、確かに誰かに書かれたものとして、私たち視聴者に読み聞かせてくれる。それは、便箋やメールの体をなしていなくても、レシートでもいい。その時、その人が何を考えていたのか、どう生活をしていたのかをふっと伝えてくれる坂元裕二作品の手紙に、私たちはいつも優しさを覚えた。そしてこの映画に登場したのは、手紙の体をなしていない、一方は残酷な、もう一方は映画的な二つの手紙だった。

ファミレスで告白をした麦と絹は、同じファミレスで別れ話を切り出す。ただし、5年前に座っていた席には先客が座っていた。別れ話を切り出すタイミング、間、ショットの切り返し全てがパーフェクトに涙腺を緩ませる。別れる決意をしながらも、やっぱり、どうしても食い下がってしまう麦。

世の中の結婚してる夫婦ってみんなそうじゃん。恋愛感情がなくなったって、結婚してる人たち、いるでしょ。〈中略〉なんか空気みたいな存在になったねって。そういう二人になろ。結婚しよ。幸せになろ。

愛がなくなったとしても、夫婦になればいい。愛がない夫婦はいくらでもいる。そんな麦の告白に一瞬揺らぐ絹。麦の言うことには一理ある。説得力もある。『ビフォア・ミッドナイト』のラストのように、二人の関係を持続させる美しさ、というのも確かにある。

一番ダメなのは、仮面夫婦、ですよね。

でも、坂元裕二の価値観として、それはダメなのだ。『最高の離婚』で上原諒が言うように、仮面夫婦、即ち自分を偽り、他者を騙すような関係はあってならないのだ。だから、坂元裕二は麦と絹に手紙を送る。いつの間にか空いていた、5年前に座った席。5年前の彼女たちと同じような格好をして、同じような話題に盛り上がる、初々しい二人。すっかりくたびれた自分たちと比べて、とめどなく涙が溢れだす。そうか、あの席にもう座ることは許されないだ。もし今日、あの席が空いていて、そのまま同じように座れば別れなかったのかもしれない。でも、あの思い出がダメになっていく。「唐揚げレモン」に勝るとも劣らない、人生の不可逆性(しかし、一方で円環的な)を説いた美しいシーンによって、麦と絹の恋愛は終わりを迎えた。

もう一つの手紙は、麦(と絹)から、私たちへの手紙だ。基本的に、映画を見ている時の私たちは、ただ見ているだけだ。画面に流れている情報をただ見て、ただ汲み取るだけ。登場人物に感情移入することはあれど、スクリーンを隔てた圧倒的他者は、私たちに感情移入してくれない。ただ、ラストによってその距離感は一気に縮まる。

麦は、別れた後に絹とカフェで偶然会った後、よく二人で行ったパン屋を、Googleストリートビューで検索する。画面に映っていたのは、付き合っていた頃の二人だった。この偶然の記録を、画面越しに見つけてしまう麦と我々は同化してしまう。画面越しに昔の自分たちを見る麦のように、スクリーン越しに絹と麦を見ていた私たち。主人公たちと同じようにパートナーと付き合いそして別れてきた私たちが、過去の恋愛を見るようにこの映画を見てきたことを、このシーンは優しく示してくれる。

ハロー 未来の私たち 元気でやっているかい?
楽しかった今夜を思い出して ふたりとも幸せでいて
これを見る時 僕らはどこにいるかわからないけど 何があっても楽しんで!

『マスター・オブ・ゼロ』シーズン2でアジズアンサリが見る、楽しかった日々に撮影されたムービーのように、私たちが固有に体験した、幸せだった瞬間を手紙にして届けてくれる映画なのだ。

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