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【イベスト感想】なぜ杏ちゃんは“可哀想”にみえるのか?【プロセカ】

イベおつです!
いや〜、結構ストーリーの展開について荒れてましたね。はっきりいって

個人的には、プロセカのストーリーで一番泣いたんじゃないかっていう位泣いた、すごく心を動かされたイベントでした。

声優さんの演技もそうですが、凪さんとか大河さんの強さ、弱さが深ぼられた印象で、RAD WEEKENDへの理解がいっそう深まりましたね。大きな悲しみの中で、それぞれがどのように現実に向き合うのかという事についてはすごく感動しましたし、涙なしには見られなかったですね。


一方で、杏ちゃん達の立場を俯瞰で見たり、前後の展開を線で考えたりした時には、「ちょっとそれはどうなん?」って部分もあったかなと思います。

今回は自分が感じたその違和感を対象に、できる限りの言語化をしていきたいと思います!

個人的に、現在賞賛の声に対しても批判の声に対してもモヤモヤしている所があるので、自分なりの考えを整理するためにも、感想を書いていきます。

⚠️一般的に問題視されているのはなぜか?という視点に立つ以上、ネガティブな感想に偏った記述になります。ご容赦ください

⚠️私は特段杏推しでもビビバス推しでもないので、細かいサイドストーリーとかは追ってません!一通り読んでの感想という感じなので、何か理解が違っているところがあったらすみません

では、早速いきましょう。以下に目次(問題点の切り口)を示しておきます。

①「人の死」と「最高のイベント」という論点が混線している


もちろん、凪さんの背景がRAD WEEKENDの根幹に関わっていて、それを避けて最高のイベントを語ることが出来ないのは分かります。でも、大切な人に先立たれた杏の視点を想像した時に、その二つってすぐに結びつくものなのか?ということは疑問に思いました。

個人的には、凪さんの死については、杏がどのように悲しみ、現実を受け入れていくのかについて、(歌と歌のぶつかり合い...大河という越えられない壁を抜きにした)単体のイベストとして扱って欲しかったですね。

大河さんの置き土産 → 過去話 → やっぱり最高のイベントを目指すぜ!みたいな流れの中に凪さんの話が入っちゃうと、どうしても人の死が何かの手段に見えてしまうんですよね

SNSで「RAD WEEKENDを超えるには死者が出るしかない」みたいな解釈が散見されたのもそのような描き方ゆえかなと思います。結果として、杏と凪さんがどれだけお互いの事を想っていたのかということが、正直納得のいくレベルまで読み取れなかったですね(後述します)

あと、「人の死」っていうテーマの特殊性も違和感を強めていると思っています。個人的には、大切な人の死は数日で立ち直れるものじゃないというか、時間の経過と共に少しずつ、その人がいない世界に折り合いをつけていくようなものだと捉えていて、よって今回のイベストのスピード感はしっくりこなかったですね。「本当に大切な人だったの?」って突っ込みたくなるというか...

② 杏ちゃんという人格が疎外されている構造


端的にいうと、話題としては「凪さんの死が隠されていた」という事に尽きるのですが、問題の所在はその事自体ではないと思います。
「なぜ、(言ってしまえばよくあるような)後で死を知る展開にこれだけの批判がされるのか?」ということの背景には、幾重にも重なる杏ちゃんの「仲間外れ(=疎外)」があるというのが私の意見です。

②-a:「最高のイベント」からの疎外


本イベントで強調されていた、「最高のイベントは観客と演者が一体になることで可能になる」という話は今後の鍵になる可能性が高いといえます。その上で、RAD WEEKENDは凪さんの最後を飾るイベントとして全員が一つになっていて、その凄みをそれぞれが改めて実感するという流れだったかと思います。

ただ、そのような立場を採用した時に、果たして杏は「観客だった」といえるのでしょうか?私はなんとも言えないと思います。想いのつながりを重視するのであれば、何も知らなかった杏は画面越しにイベントを観てるのとそんなに変わらないのではと感じちゃいましたね。そのため勝手にではありますが、「じゃあ最高のイベントって結局なんなん?」って感じてしまいました。

一方で、上の意見には次のような反論をすることができると思います。「凪さんから次世代へバトンを繋ぐという意味では、確かに一つになっていたのではないか」と。個人的には、確かにそこには相互性があったとは思います。しかし、それでもその想いは釣り合っていなかったんじゃないかというのが正直な感想です。杏は凪さんをまっすぐ見ているのに、凪さんは杏を「次世代の代表」としか見ていなかったような印象を受けました。

個人的にはこの辺りが一番のおこポイントというか、杏がリスペクトされてないなと思う所なのですが、これについては節を改めてじっくり書きたいと思います。

②-b:「家族」からの疎外


ビビッドストリート、“この街” の住人は音楽を共通項とした仲間であり、特に杏(たぶん凪も)は「この街の娘」のような存在として、周りを愛し、周りに愛されているということは今更説明不要かと思います。ただ、今回のイベストで杏がされたことは、「家族」への扱いとしては疑問に思えることが多かったと個人的に考えています。

話を整理するために、まずは凪さんの立場に立って話を進めます。凪さんは、杏に自分の死を隠すようお願いしますが、その理由は大まかに

①これから(名前だけでも)一緒に夢へと歩みたい
②(杏に対して)歌を悲しい思い出にしたくない、歌を続けて欲しい

の二つであったと理解しています。
ただ、この二つの態度は家族に対する態度、想いを共有している者への態度とは180度異なった、内(家族)と外を区別したものである事も同ストーリーから読み取れます。

①については、大河さんがその夢を引き継ごうかと話をした時に、「あたしのためならやらなくていい」とそれを制していることから、その違いが読み取れます。ちゃんと自分のために歌ってくれと大河に伝えた上で、自分の人生を畳んだ訳ですよね。

また、そもそも大河さんや街の人に対しては死ぬことを隠さなかったという事自体が何よりの線引きですよね。凪さんの最後のセリフは「お兄ちゃん、私に歌を教えてくれてありがとう」ですが、このセリフは杏こそが凪さんに最後に伝えたかったことでもあると想像できます。なぜ、凪さんが伝えた言葉を杏が伝えることが許されなかったのか、そう考えると、やっぱり凪さんと杏の想いには差はあったのではないか、杏にとって凪さんは家族同然の人だったが、凪さんにとっての杏はそうではなかったのではないかと考えてしまいます。

②-c:「次世代」の押し付けによる“杏らしさ”の疎外


ではなぜ私(のような読者)がそのような気持ちになってしまうのかについてですが、私は「次世代」という、本イベストに奇妙なほど出てくる言葉が、その原因であると思います。

ここで、凪さんが杏に死を隠した理由②に戻りましょう。

②(杏に対して)歌を悲しい思い出にしたくない、歌を続けて欲しい

とはっきり凪さんは言っていますが、これって改めて考えると違和感がありませんかね?
私は、他の(死について本当のことを言わない)物語と比較すると、この動機は異質なものであると思います。
一般的な物語では、自分が相手の人生を縛りたくないがために死を伝えないことが多いのではないでしょうか。

「杏には自由に生きてほしいから、死ぬ前に会わない方がいい」
というのが、一般的な残される者へのメッセージであるように思います。

ただ、凪さんの願いは逆ですよね。「次世代の代表は杏という確信があるから」、「歌い続けてほしくて」、「悲しい思い出になるかもしれない死を隠す」という理屈だと私は読み取りました。

これはある種の呪いともいえるかなと私は思います。こういった「呪い」自体は色んなストーリーのあるあるですが、「誰かに対して真実を伝えないこと、すなわち自分たちの物語から“疎外”することを通じて呪いをかける」というやり方をあえてすることは、“ないない” だと思うんですよね。
だってずるくないですか?笑

少なくとも、そういった境遇の人に感じる感情は「かわいそう」であると思います。そのため私は本イベントの杏に対して、憐れみや同情を向けずにはいられませんでした。

詳しくは後述しますが、そのような形で伝えるメッセージは、(本人の納得に関わらず)拒否のしようがないということが特にずるいと思います。故人に反論なんてできないですし、大事な夢を託すなら、ちゃんとお願いするのが筋だと思います。

ではなぜ凪さんは、大河さんにはしなかったような、自分の夢を重ね、(結果的に)杏たちの人生を縛るような真似をしたのでしょうか

※ちなみに凪さんは杏のこれからを縛るつもりなどなかった、むしろ自由に選択してほしかったから死を伝えなかったのだという解釈は個人的には受け入れられません。なぜならそうであれば、「一人前のレディーになった時に、改めて真相(次世代に託したぞという内容)を伝えること」を頼む動機がないからです。杏が「次世代の代表」として語られていることは事実ですし、今回は「杏に歌い続けることを求めた凪さん」という前提に立って話を進めます。

そこで私が気に入らないのが、杏を結局「次世代」として括ってしまっていることです。確かに杏が次世代であることは事実なのですが、私はそのような表現によって、杏の個別性、人間性が無視されているような印象を受けます。
杏がどのように感じ、この3年間を生きてきたのかが後景に退いてしまっていると思います(「杏の」イベストなのに...)

また、ここにあらゆる杏とRADerの間の気持ちのすれ違いが詰まっている様に私は感じてしまいました。

・杏は同じ時間を過ごしていると思っていた
⇔大人は「自分達」と「次世代」を分けていた
 ...死を伝えるかどうかの線引きがされた

・杏は凪さんを家族のように想っていた
⇔凪さんは「次世代」に対する想いを込めた

ここに想いの相違がある様に演出がされていること、(より正しくは、お互いを人間として尊重しているかどうかが読み取りにくいこと)は個人的に残念です。特に、杏と凪さんはもう話すことができず、すれ違いを解く事もできない訳なので、「お互いの事をちゃんと想っていた」という事は、いくら強調してもやりすぎではなかったと思います。

ちなみに、仮に自らの死を隠したとしても、杏との思い出を尊重する、杏に対して個別のメッセージを送ることはできたと思います。例えば、杏への手紙を残すなどです。ただ、凪さんはそれすらもしないんですよね。となると、

①自分の願いを叶えるために
②「次世代」に対して
③自分の死を隠し
④必要以上に杏を傷つけた

という以上のことを読み取るのが難しいように思います。凪さんが(明確な言葉として夢を託さないという責任逃れをしながら)夢を繋ぐために生み出された都合のいい概念として、「次世代」という表現があるように感じてしまいました(穿った見方をしすぎですかね?)。

表面上はそれぞれの夢を尊重しているし、杏を特段大切に想っているように見えるが、結果としては自分の都合に杏たちを従わせていることになっているような気がします。しかもそれは意図していない結果ではなく、凪さんの明確な願い(戦略)であるといえるのではないでしょうか。

死を隠したことの何が、杏に対する優しさだったのかが正直あまりわからなかったです。分かる人がいれば教えてほしいです。

番外編:謙さん何してんの?


ただ、ぶっちゃけ凪さんと杏は他人なので、大河さんと関わり方が違うのは理解できますし、結局本人も「わがまま」って言っているので、凪さんが悪いとはあまり言い切れないんですよね(結果として、杏が傷つけられている状況には反発しますが)。

あと、死が近づいた人の気持ちは死ぬ直前にならないと分からないとも思っています。私だって死ぬ間際になったら、「次世代」に何かを残したいと思うかもしれないし、誰かに恨まれたとしても一緒に歩み続けたい、そんな夢を自覚するかもしれません。

そもそも冷静な判断ができるとも限りませんよね(杏に何も言わなかったことをあの世で後悔しているかもしれないし) 

ただ、そのどれにも当てはまらない人がいます。それは謙です。お前はもう呼び捨てがお似合いだという位にはキレてますね。言いたいことは簡潔にまとめると一つです。「少なくともお前は杏の家族じゃないのかよ」ってことですね。

凪さんが「次世代」に想いを残したかったこと、大河さんが彼らに自分の歌をぶつけたことについては、完全に賛同はできませんが理解はできます。ただ、なぜ謙さんが向こう側なのか、なぜ実の娘を「次世代」と括って、「いずれ痛みと共に知ることになるさ」なんて他人事みたいなセリフを吐くことができるのかは理解に苦しみます。ここは正直あの街の特殊な価値観というか、無理に理解しない方が良い部分なのかもしれませんが、僕にとっては異質なものとして映りました。

それに関連してなのですが、彼ら大人たちは杏に対して、「申し訳ない」という素振りを全く見せないんですよね。僕の中の常識に照らし合わせると、誰かの死を隠さざるを得なかったとした時には、仮にそれが正しいと感じていたとしても、申し訳ないという気持ちがここでの杏に対して湧く気がするのですがどうでしょうか?

だって結局杏に隠していたのも、このタイミングで杏に話すのも全部「大人の都合」ですよね?なのになぜ、涙を流す杏の前で、「これは最高のイベントを“次世代”としてつくるための通過儀礼だ」みたいな顔をしていられるのでしょうか。言葉だけでも、杏に歩みよろうとは思わないのでしょうか。

以上のような扱いを街全体から受けていること、特に肉親の謙さんでさえ杏に寄り添う訳ではなく「向こう側」の人間であったことは私にとって受け入れ難かったです。特に、ここ一年くらいは「街を愛し、街に愛されることが大事」といったメッセージがストーリー内で強調されていたため、余計に気分が悪くなりました。

「そこに愛はあるんか?」ってことですね

ここまでの話を整理すると、

①杏が凪さんに対して持っている気持ちは描写されているが、凪さんから杏への気持ちが(次世代への期待という形でしか)描かれていないので可哀想にみえる
(結局伝えなかったのは歌を続けてほしかったからで、杏の気持ちをメインに考えてではなかった?という印象)
...杏の片想い感(愛し愛され、ではない)

②以上の価値観を「大人」が共有していて、その誰もが「次世代」に立ちはだかる者として杏に関わっている(肉親の謙さえも)
...杏の気持ちが尊重されていない印象

という2点が私の主な不満点ですね。SNSでは「モブセカ」などと、今回のイベントが揶揄されていましたが、私はそれは杏に対する個別的なメッセージが足りていなかった、結局「次世代(の代表としての杏)」へのメッセージとして、全てのストーリーが展開していたことが原因であると思います。

話題として、杏が大好きだった凪さんのことがメインではあったのですが、別に杏のバナーじゃなくても「次世代」へのメッセージは成立すると思います。私個人としては、「杏個人に対して、どれだけ周りの人が特別に想っていて、だからなぜ、“他の誰でもない杏が” 立ち直らなければならないのか」という話が見たかったですね。

③ 杏が大人に対して応答する権利の剥奪


一方で、今までの主張には以下のような反論がつくかもしれません。

「杏に対して、街の人や大河・謙がそのような関わり方をするのは、音楽の前では誰もが対等であると思っているからであり、一人前としてリスペクトをしているためである。特別扱いをしないのは、誰よりも音楽に対して、また目の前の杏に対して本気だからだ」
といったものですね。

確かに、そのような関わりがありえることは分かります。ただ、今回のイベストにおいては、対等にやりあう為の前提条件がいくつか欠けているような気がします。

まず、その対等性というものが、当たり前のものではなく「大人から与えられたものである」ことは大きな問題として指摘できます。最初から対等なのであれば、3年前の杏への対応は違ったはずです。凪さんが「一人前のレディーになったら...」みたいなことをベッドで言っていましたが、それは裏を返せば、当時の杏は子どもで、真実を打ち明けるに値しないという前提に立っているからこそ出てくるセリフだといえるのではないでしょうか。

この3年間で杏は、「勝手に子どもにされ」、「勝手に次世代とされた」ために真実を隠され、今回は「勝手に大人にされた」ために辛い現実を話されたのではないでしょうか。これって、「音楽の前では皆平等」みたいな価値観と共存できますかね?私はダブルスタンダードな気がします。

さらには、そういった大人達のメッセージに対して、杏が「反抗する余地が与えられていなかった」ということも大きな問題でしょう。大人が勝手にやるなら、杏たちも勝手にやる権利があるはずだし、それこそがビビッドストリートにおける対等性であると私は認識しています。事実、RADerの面々はそのような前提に立ってお互いにやりあいながら、朝も夜も忘れて歌いながら、実力を高めていったのだと思います。

では、今回の場面はどうでしょうか。あらゆる側面から、杏が現状に対してNOを突きつける選択肢が奪われていたと個人的には感じました。

まず大前提ですが、凪さんはもう死んでいるということは、大幅に杏の行動を制限していますよね。もう凪さんに文句を言うことはできないですし。あと、度々話題に出していますが凪さんが、

「杏に対して次世代を引っ張っていく期待をしていること」
「それを“立派なレディー”になったら本人に伝えてくれと他人に頼んでいること」

は本当にずるいなと思います。なぜなら、そのメッセージに対して反抗をすることは、一人前であることの否定であり、凪さんからの期待を裏切ることでもあるからです。何も反論が出来ない立場から、そんな言葉をかけられてもどうしようも出来ないだろって思っちゃいましたね。

よって、杏がなぜそれでもRAD WEEKEND越えを目指すのかがあまり伝わってこなかったんですよね。杏が、それを目指すことを強いられている、受け身の存在であるように感じられてしまいました。

厳しい現実を伝えるだけ伝えて、仲間の前でイベントへの決意を語らせる(+全てが1日の中で完結している)という状況で、どれだけ自信が納得して決断を下せるのか?ということはやはり疑問に思ってしまいます。

結果として、杏が本心で何を思っているのかが分かりづらくなってしまう(じっくり悩んで決めた訳ではないため)ことで、杏と凪さんの気持ちとか、最高のイベントへの決意といったストーリーの根幹への納得性が薄れてしまっているのは非常にもったいないと感じました。
※本当に個人的な感想ですが

また、少しメタ的な話にはなりますが、杏がその話を聞いてどう思ったかということが8話の最後にしか出てこないということも杏の応答性を疑問視する理由の一つです。

大半のイベストは、全8話のうち2話くらいで主役(バナーの人)が悩んで、6話くらいで解決の兆しが見えて...という流れであると思います。そこが1話しか与えられずに、イベストの後のエリア会話では「もう大丈夫」みたいな話がされているのはかなりの違和感でした。

最初に書いた通り、大切な人の死は「はいそうですか」で受け入れられるものではないと思うんですよね。つらい想いをもし杏にさせるなら、ちゃんと悩んで、色んなことに気づきながら、「凪さんに会えない世界でRAD WEEKENDを越える」という覚悟を決めてほしかったと感じました。

以上の理由から、杏は大人の論理で子どもにされたり大人にされたりしているし、それに対して自分なりの意見をいう機会が奪われていると私は思います。それを「この街の対等な在り方」として容認することは私にはできません。

また、それらに関わってですが、ビビバスのストーリーは、全体を通してRAD WEEKENDが“正解”として見なされすぎているように思います。もちろんそれは彼らの目標なのですが、それを越えるためにRAD WEEKENDを再現する必要はないし、彼らなりの「最高のイベント」を目指していいと思うんですよね。他のユニットのストーリーではそのあたりは柔軟というか、根っこの想いを大事にしている気がするんですが、ビビバスのストーリーはその点が窮屈であるような印象を受けます。

逆に、今回のイベントを受けて、ビビバスの皆がこれからどのようなイベントの在り方を望むのかということはとても楽しみです。単純に「RAD WEEKENDを越える」という目標だけだと納得ができないというフェーズに入っているのかなと思います。

※ちなみに、「少年漫画みたいで自分は好き」っていう感想もSNSで結構みたのですが、やっぱり自分は杏という主体が無視されてる感が強くて、少年漫画的ストーリーとしては楽しめなかったですね...

だったら変な搦め手みたいな格好で想いや夢を伝えるのではなく、はっきり凪さんから杏へのバトンを渡してほしいし、杏が(このイベストの主人公として)いかに覚悟を決めるのかということを丁寧に描写してほしかったですね。

結局のところ、杏に凪さんの死が隠されることの納得性が薄いように感じてしまいました。少年漫画における「呪い」は「運命」ですが、本イベントの「呪い」は凪さんのただのワガママじゃね?って心のどこかで思っちゃってるんでしょうね。

おわりに

以上です!!
自分の思ったことを全部書いたら長くなりすぎました(最後まで読んだ人いるのか...?)。
だいぶ勝手なことを書いてしまったなと反省してます。勘違いして欲しくないのは、私はいつも読むプロセカのストーリーが大好きだし、公式の展開をとても尊重している(尊敬といった方が正しいかも)ということです!
正直良かったと感じた点はもっともっとあるんですけど、キリがないなと思ったのでこの文章ではネガティブよりな書き方になってしまいました。

あと、私の意見には「私目線で再構築された杏の気持ち」が多分に含まれていますので、その辺りも反省ですね。結局当人たちの間に幸せがあればオッケーだと、外野が何か騒ぐのは野暮以外の何者でもないということは肝に銘じたいですね。それも含めて、一個人の感想として、理解してもらえればと思います。

私が感じた不満点は次のイベントで回収されるのかもしれないし、その辺りも含めて私ができることは次の展開を待つだけですね。

ビビバスのメンバーの今後に幸あれ!!!!!

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