分裂のハウルと無名の千尋

 こんにちは。Kamo Cafeの店長です。私はジブリの映画が好きです。特に、「ハウルの動く城」と「千と千尋の神隠し」の二作は気に入りました。「千と千尋の神隠し」は宮崎駿のオリジナルの作品ですが、「ハウルの動く城」は、原作はイギリスの作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説です。時系列的には、「千と千尋の神隠し」が2001年公開、「ハウルの動く城」が2004年の公開でした。
 「ハウルの動く城」、「千と千尋の神隠し」。この二作を観ていると、同じテーマを扱いつつも、その描き方が好対照をなす一対の作品だと私は感じました。そのテーマとは、インターフェイス(相面)です。

1.分裂のハウル

 ハウルはその動く城の一階部分において、いくつかの色に分かれたメーターが動く扉をくぐり、それぞれの色が繋いでいる世界へ飛んで行きます。それぞれの世界では全く異なる格好をして、全く異なる目的のために闘ったり、ミッションを果たしたりします。ジェンキンスやペンドラゴンなど、複数の異なる名前を目的に応じて上手に使い分けて、強力な魔力で仕事をして行きます。
いかにも仕事ができそうな現代の男性像の様な描かれ方をするハウルですが、城の中に帰って来ると、いつもハウルは奥にある自分の部屋の中で疲れてぐったり寝ており、その部屋はカビと汚れだらけで、ハウルもまさにその汚れの一部のように汚い存在です。
 一般的に外界に対する人間の関わり方、その関わる時の人間の相面を「インターフェイス」と呼ぶならば、ハウルには複数の全く異なるインターフェイスがあります。インターフェイスごとに実際の顔も服装も役割も違い、それぞれのドアの向こうのそれぞれ別の世界には、それぞれ別のハウルがいます。作中でハウルは非常に仕事のできるイケメン成人男性として描かれていますが、現代のモテる男は「使い分け」が器用なのでしょうか。
 外界との関係で仕事ができるハウルですが、本来的な自分はカビのように病んでおり、その根本的な事情を主人公ソフィーは辿って行きます。ハウルが若い頃に火の悪魔カルシファーと契約したことは分かっていましたが、それは心臓を差し出す代わりに魔力を得る契約であったことが分かりました。心臓が無ければやはり精神的な意味でのハートも無くなってしまうのでしょうか。

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 魔力を使って頑張って仕事をすればするほど、本来的な自分自身が何者であるかのかが分からなり、ハウルはどんどん自分を命の危険に晒していきます。しかもそんな人間はより強い人間に、その役割遂行能力を利用され最後は討伐されるのが現実なオチで、ハウルも大魔法使いサリマンから狙われ続けました。

 そのようなハウルをソフィーは助けるために奔走し、何とかカルシファーとの契約を解除するに至ります。本来的な自分を取り戻したハウルはソフィーと二人で愛を確認します。ソフィーの愛に基づいた行動が、ハウルが本来的な自分自身へと立ち戻る助けとなりました。

2.無名の千尋

 これとテーマを同じくして描き方に好対照をなすのが「千と千尋の神隠し』です。強欲な親が豚に変えられたせいで湯屋に紛れ込まざるを得なかった千尋は、湯婆と契約して湯屋で働かせてもらう代わりに、名前の一部である「尋」を取り上げられて千と呼ばれるようになったという所から物語が本格的に立ち上がりました。
 千は頑張って湯屋の仕事をして行きますが、名前を取り上げられた千の身体、その存在そのものが消えて行きます。しかし、自分自身が消えて行っている千でしたが、その他者への優しさは消えず、誰からも相手にされないというより存在が認識すらされないカオナシにも優しくするのでした。一方、同じく湯婆と契約して名前を盗られたハクは優しさを失って、まるでハウルのように各地へ戦いに赴きます。
 このカオナシという配役は本作の極めつけの役で、名前の通り、顔が無い、インターフェイスがありません。一度千から親切にされたその優しさを味わうと、カオナシは千に対する承認欲求を募らせていきます。他者に対するインターフェイスが無いカオナシが何をするかというと、偽の金を生み出し、湯屋の従業員の欲望を掻き立て金を握らせ、どんどんそいつらを取り込んで行き、化け物になります。他者を従わせる手段として金を使えば使う程、カオナシの暴力性は増して行きます。一見他者を取り込んで行っているので、カオナシもハウルのように複数のインターフェイスを持つようになるのではないかと思われますが、確かにカオナシの肉体には取り込んで行った他者の一部が描かれますが、それは化け物そのもので、インターフェイス無し・存在無しだったカオナシは、欲望の化け物へと変貌しました。

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 千に対して金を使って服従を迫るカオナシでしたが、千はそれを拒否します。本当は自分の親を助けるために使おうと思っていた川の神様から貰ったお団子の半分をカオナシにあげて(ここでも千は自分の事よりも他者を優先する優しさを持ちます)、千は白の所へ行きます。
 物語終盤で千はハクの本来の名前を思い出し、それをハクに伝えました。ハクも自分の名前、そして自分自身が川の神様であったことを思い出し、契約を解除して湯婆の下を離れることができるようになります。
 本作は一貫して、名前というインターフェイスを失くしてしまった者たちが、千尋とカオナシ、千尋とハクという相互関係において、優しさと愛において、再び本来的な自分自身が何者であるかを取り戻すという過程を描いた作品でした。

3.インターフェイスと「自分」

 「汝自身を知れ」と言った人類最初の哲学者はソクラテスでした。現代において宮崎駿がこのような二作において、人間のインターフェイスの分裂、または人間のインターフェイスの無さを描いたのには、現代における人間の精神的なテーマが「自分」というものだからでしょう。それは他者との関係での自分というものを扱う哲学的なテーマです。日本では2000年代初頭に「自分探し」や「自己責任」という言葉が流行りました。
またこの2作では、契約という取引行為によって、ハウルも千尋もインターフェイスに問題を抱えるようになった(即ち自己同一性が失われる端緒になった)事も留意が必要だと思います。
 人間のインターフェイスと自分という問題を解決するためには他者との関係での愛
がカギだと宮崎は描いているように私には思えます(それはこの2作では契約を解除する機能を果たします)。ならば、愛とは何かという問いに答える必要がありますが、それに関しては私はこのnoteの別項「分裂と統合のNARUTO物語」で書きました。

4.ダイアナ・ウィン・ジョーンズ

 最期に面白い作家を一人紹介しておきます。それは、「ハウルの動く城」の原作小説を書いたイギリスの小説家、ダイアナ・ウィン・ジョーンズです。
 ダイアナは魔法小説やSFを得意とする作家です。英文学で魔法小説と言えばハリー・ポッターが有名ですが、ダイアナはその一世代前の作家で、イギリス国内では世代を問わず非常に高い人気があります。2011年に亡くなりましたが、非常にたくさんの作品を残しました。代表作に「大魔法使いクレストマンシー」シリーズ、「ハウルの動く城」シリーズがあります。
 このnoteの別項「分裂と統合のNARUTO物語」の中で、私は漫画NARUTOのテーマは分裂と統合だと指摘しました。このダイアナのテーマも分裂と統合です。「ハウルの動く城」については本稿で指摘した通りですが、「大魔法使いクレストマンシー」シリーズも分裂と統合がテーマです。そこでは、世界は9つに分裂して並行して存在しており、それぞれの世界にそれぞれの対応する同じ人間がいます。しかし、主人公のクレストマンシーだけは9つ分の命を一人の肉体の中に持ち、並行世界に9人のクレストマンシーはいません。一人で統合的な存在としてのクレストマンシーは、分裂した並行世界を渡り歩き、魔法を使って世界の危機を救う、という話です。
 「大魔法使いクレストマンシー」シリーズは7巻が刊行されていますが、ダイアナが一番初めに読者に読んで欲しいと言う『魔女と暮らせば』(徳間書店、野口絵美訳)という作品は非常に面白いので、よかったら皆さん読んでみてください。



参考文献

深尾葉子『魂の脱植民地化とは何か』


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