近代的自我の目覚めはいつ終わるのか タコピーの原罪について

 タイザン5は現代の問題に目を向けた天才だ。彼の作品には読者の心を揺さぶる切れ味がある。

 そのことを実感させられたのは、彼の著作タコピーの原罪を読んでからだ。

 タコピーの原罪、一昨年、ジャンプ+で連載されていた作品だ。
 主人公のタコピーは宇宙人。ハッピー星から地球にやってくる。そこで静ちゃんに出会う。タコピーと彼女は友達となる。

 宇宙人と少女のほのぼのとした日常と思わせて、ある日、静ちゃんが自殺してしまう。

 じつは読者わかっているのだけども、ハッピー星からやってきたタコピーには、暴力や虐待という概念がわからない。目に入っていても気づかない。

 だからこそ、静ちゃんの自殺を止められなかった。静ちゃんを助けたいと考えたタコピーは、過去に戻って、静ちゃんを助けようとする。

 1話を読んで衝撃を受けました。そして、連載中に追っていた時にずっと考えていました。タコピーの原罪って、夏目漱石なんだな、と。

 夏目漱石、明治の文豪。

 この人は、三四郎という作品を書いている。

 主人公の三四郎は田舎で生まれた青年。大学で学ぶために田舎から東京へやってきた。

 田舎から来た三四郎は東京でいろんな人と出会いながら、自分の考えの狭さを知り、新しい自己を持ってこれからの時代を迷いながらも進んでいく。

 近代的な自我の目覚め、と呼ばれているそうですけども。自我の目覚め、というのがなにをきっかけとしたかといえば、今まで住み慣れていた場所とはルールの異なる場所に行くことだった。

 不思議の国のアリスでもある。
 アリスは現実とは違う夢の世界を旅することで、最後には自分と鏡合わせの自己を見つめる。

 三四郎は最後に絵を眺めながら、心の中でストレイトシープと呟く。あれは鏡の前で自分を見つめるということです。

 内面的な自己と向き合う。精神的な鏡合わせを行うための旅を描いたのが、不思議の国のアリスだし、三四郎でもあり、近代的な自我である。

 タイザン5は少年が鏡を見るまでの旅を描くことに意欲的だ。それは読み切りのキスしたい男からも、現在連載中の一ノ瀬家の大罪からもわかる。

 これらの作品の目的は自己の世界から脱し、鏡を見つめることである。それこそが本来明治に起きるはずだった近代的自我の目覚めなのだ。

 起きるはずだったとは、起きてないということだ。

 今こそ、夏目漱石を読み返そう。

 私はそういうのが大嫌いだ。

 古典は価値があり、残り続けるものだと言われているが、私から言わせればそれは違う。古典は陳腐化し腐ってしまうべきものだ。

 若者は古典を読んだ時、新鮮な喜びを感じるのではなく、何度も別の媒体で聞かされたものをわざわざ聞かされたかのように思わなければいけない。

 そうなるように、人はアップグレードしていくものなのだ。これは古いは本は捨てろということではない。古い本に書かれているようなことは当たり前であれというのだ。

 近代的な自我の目覚め、私という個人の誕生。その個人という概念にまだ振り回され、ストレイトシープが擦り切れたテープのように何度も再生される。

 それは何度も繰り返されるべきことではないはずだ。

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