安易な方法で空想を消費している

 最近、文章が書けていない。
 理由は明白。フラストレーションが足りていないんだ。渇望、欲望、書きたいという気持ち。それが欠けているから手を伸ばそうという気持ちがない。

 自分は小学生の時に小説家になりたいと思った。
 なりたいと思うとは、なれないと思ってるということだ。なれるなら、なると思うんだ。
 なりたいという希望は、なれないという現在から背を向けることからはじまる。

 生まれながらにして賢い、としたならば、その赤ん坊は、その場に座りこんで選択しない。高性能なPCはインプットありきでアウトプットがはじまる。

 正しいとはなにか。それがどうしたことか。言葉をただ並べるだけでは文章は成立しない。ただの煩雑なカオスがあるのみだ。

 幼い自分には言語と呼べるものがなかった。自分の感情を具体的に表現する手段がなかった。耳がキーンとすることが多かったのである種の難聴だったんだろうか。たんなる知恵遅れの類か。

 なんであれ、筋道の通ったものを書くということ自体がそもそも大変だった。であるのにも関わらず、書きたいと願った。書こうとした。

 だからこそ文章が書けた。言葉を紡げた。本を読むことができた。欠けたものを埋めたいと考えたから今がある。

 かといって、自分は欠けている。だからいいものが書ける。
 そうやって自分の問題を認識しているクセに、それを自己肯定に使うやつが僕は嫌いだ。
 文学とは、答えの出てないものに答えを出すことだ。前に進もうという意志のことだ。

 しかし、自分は文学をわかってると考えている者たちの中には昔の考えを大事にしすぎる傾向にある。名作は土台や肥やしにすべきで、前提であるべきなのだが、前列にして、囲いをつくって、外れたやつを家の中で笑ってるやつが多すぎる。

 賢いと思ってるのだろうが、進歩がない。
 進化しない木から降りない猿と同じことをしている。
 偉そうなことも言えない。今の自分がそうだろう。

 文章を書けていない。書こうとも思っていない。
 形にしたいと願う材料となる欲望を安易な方法で消化している。

 なにかを食べたいと思ったときに、自炊でなく、コンビニですませる。
 知識欲や好奇心をTwitterで満足させている。
 コミュニケーションに対する欲求をyoutuberで満足させている。
 性欲をアダルトVR のコンテンツで満足させている。

 これでは足りないというのが、最近なくなってきている。かといって、不満足が減ったかといえばそうではなく。
 安易な方法で消化しすぎていて、生産的な活動ができなくなっている。

 むかしと比べると、物理法則を無視した発想やこの世に存在しないものが見えるようになったりしなくなったが、本来であれば、ある程度の常識と創造性は両立しうるものだ。それをしようという意思が足りていない。

 道なき道を進もうという意思をもう少し持たないといけない。

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