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12月4日のお話

東京の冬は晴れが多い。

どうしてこうも毎日晴れるのだろう、と、クルミは早朝のベランダで空を見上げました。12月にもなると、晴れていてもこの時間は冷えます。パン屋に勤めるクルミの朝は、夜明け直後のこの時間から始まります。

ベランダには東の空から真っ直ぐに太陽の光が降り注ぎます。洗濯物を持つ手がかじかむのも強い日差しがあればいくらかマシ。晴れる日は嫌いではありませんが、こうも毎日晴れると、クルミは毎日洗濯”したくなる”から困るです。

一人暮らしにも関わらず、天気の良い日は毎日洗濯機を回すクルミのことを、彼氏は「アライグマみたいで可愛い」と言っていじりますが、潔癖とかそういうものではなく、これは彼女の生活スタイルなのでした。

クルミは北陸生まれ、北陸育ちです。東京とは対称的に冬は曇か雪の日がほとんどという故郷では、晴れ間が見えた時は貴重な洗濯日和でした。クルミは大学から実家を出て、隣県で一人暮らしを始め、そのまま近くの製造業の事務として働いました。そんな一人暮らしの生活の中で「晴れ」=「洗濯したい」というリズムがついてしまったのでした。

クルミが東京に出てきたのは、24歳の頃。当時の、年下の彼氏の就職を追いかけるように上京してきたのです。しかし、その彼とはその後うまくいかず、新しい今の彼氏も東京でできたことでそのままもう4年、東京にいることになります。

童顔なので若くは見られますがもう30歳近く。一応正社員ですが、今のパン屋の仕事をいつまでも続けられないと思うと、色々と焦る年齢です。

今日も乾燥している…。

晴れて暖かな日は歓迎ですが、乾燥するのはまだ慣れません。昨日も天気は悪くなる予報でしたが、結局大して雨も降らず、湿気は朝の気温差の滴のみ。生まれてからずっと、湿度の高い(つまり雨や雪の多い)日本海側で育ったクルミのは、この環境は少し辛いものでした。

今日は金曜日。月木休みのシフトで働いている彼女にとって、今日は連勤初め。そして、いつも平日の朝にすれ違う素敵な会社員さん(多分)とも会える日です。何ヶ月か前にぶつかりそうになってお互いに謝ってから、気付けばその人とは、毎日すれ違っていました。そう気づくと、そのスーツ姿の男性に興味を持ちます。彼女はしばらく、彼とすれ違う瞬間を平日の朝の密かな楽しみとしていました。

そんな会社員さんが、突然閉店後の店にやってきた時は、驚きと共に運命的な何かを感じるような嬉しさでテンションが上がりました。3日前のことです。相手は自分があの時にぶつかった人だとは気づいていないようでしたが、丁寧な対応と気遣いに大人の男性をみた気がして、クルミの中でますます興味のある対象になっていました。

家族がいるかどうか、カマをかけた「パンの個数」の質問でも、少ない方を選んだし、もしかしたら独身の可能性もあります。自分には彼氏がいるので、どうなりたいとかそういう具体的なことはありませんが、日々の生活に楽しみは必要。彼女はそう考えるタイプでした。

その翌朝は、なぜかすれ違いませんでしたので、今朝この後に期待です。

しっかりと保湿をしてメイクをし、長い髪にも乾燥防止のオイルをつけます。何を期待するわけでもなくても、何かあると思うと身嗜みも気合が入る。女子というものは単純なものだと、クルミは身支度をしながら思います。

彼女は以前、パンを見ている時のお客さんの会話を耳にした時、へぇっと思ったことがありました。30代後半の男女で、仕事の仲間のような様子です。ところが、仕事仲間ですが少し距離が近いようで、そこが妙に気になりました。

こうして接客業をしていると気づくのですが、人と人との距離は適切な距離というものがあって、それが近い人は見てすぐにわかります。恋人同士、夫婦、として違和感のない人たちなら何も思いませんが、そう見えない二人の距離が近いと「あれ?」と思うのです。その二人組も、そんな感じでした。だから会話に聞き耳を立ててしまったのです。

男が言います。「恋愛って、40代からが楽しいと思うんだ。」

女が「え?」という表情をします。

「結婚するまでは、結婚するための恋愛って、もう普通じゃん。」と男が言うと、女の方は一瞬で何かを得心したような表情になり、「なるほど、そうですね。」とうなづきました。

一体何がなるほどで納得できるのか、クルミには全くわかりませんでしたので、彼女はその時思わず二人の顔をまじまじと見てしまいました。40代前後と言われれば、そうも見える二人。

「そう言うのを一通り終えて、その後にある恋愛を、その人がどうやっているのか。それが面白いよね。」

男はそう言うと、オリーブ入りのパンと、クロワッサンを注文してきました。女の方は、チョコクロワッサンと、名物の食パンを買いました。

二人とも、左手の薬指には違う指輪をつけていましたが、会計は男の方がまとめて払いました。

クルミは二人を見送りながら、頭の中で反芻します。

「一通り終えて、その後にある恋愛。」

それは一体どう言うものなのでしょう。まだ一通りすら終えられていない彼女には想像もできないものでしたが、あの二人がそう言う恋愛関係ではなさそうです。それにしては距離がありました。でも、もしかしたらこれからそうなるのかもしれません。しかしそこには、昼間のパン屋での何気ない会話だったからか、いやらしい雰囲気は全く感じられませんでした。

恋愛とは何なのか、その時からクルミは妙にその問いが頭に引っかかるようになりました。しかし、今朝のような気持ちの時は、ふとその答えがわかったような気がします。

彼氏はいて、その彼のことも大好きだけど、今日これからすれ違う会社員さんとの一瞬を楽しみにしている。それ以上を望むわけでもないし、そこまでの情熱もないけれど、その一瞬が楽しい。こう言うものも恋愛の一つの形だとすると…。

そこまで考えて、家を出る時間になっていることに気づき慌ててコートを手にとります。

まずは一通りの恋愛をちゃんとやることからかな。

そう思い、家を出ながら、彼氏に「おはよう♡」とLINEを送っておきます。駅に向かう途中で、LINEの返信が着信しますが、それはすぐに既読にしません。それどころではなく、クルミの頭の中は「今日はすれ違うかな。」と、これから二駅先の駅を出たところで、会えるはずの会社員さんのことで埋め尽くされていました。



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