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踊り場タイム

今日近くを歩いていたら、いつのまに葉桜になっていたので、慌てました。季節の移り変わりの早さを感じているところです。桜を眺める季節ですね。あっという間に、3月も半ばを過ぎました。
よしえ食堂ができるまでということでその過程を綴っています。今日はこのところの心境をつづってみたいと思います。 
(写真は、工房のプラムの花です)

親の役割
先週お話ししたように、娘は中国に巣立っていきました。コロナ禍にあって向こうではホテル隔離中ですが、順調に日々を送っているようです。今は便利な時代、インターネットのおかげで、通話も無料でできますし、映像も簡単に送ることもできます。まるですぐ近くにいるようにコミュニケーションが取れます。娘が隔離されているホテルの様子も、提供されるホテルの食事の様子も、すべて知ることは容易です。遠い国ですが近いものです。


ところが、こんなに身近に感じていても、不思議なことに、あの日から私の心の中には空虚な感じがあります。「親とはなんなのだろう」と思うのです。
ひと昔前なら、国際電話も高額でよほどのことがなければ連絡を取ることもなかったと思いますし、それ以前なら、電話はおろか手紙が主流だったことでしょう。海外へ飛び立つことも相当大変だったと思いますが、国内の移動すらもたやすくなかった時代でも、親は子どもを送り出していたのだろうと思うと、親の役割はいつの時代も変わらないのだと思います。「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」とも言われてきましたが、まさにそうですね。

今ごろになって、母の想いがわかるのです。受験や進学で遠方に出る時の親の気持ちって、こんな感じだったのだろうと。ひとり暮らしをするときの心配や、病気だと連絡したときの慌てる様子、段ボール箱におかずやお米、手紙を詰めて送るときの気持ちなど、今になって初めてそこに思い至るのですね。今ごろになって、あらめてに両親に感謝です。

母が、父と一緒になって台所だけの建物を創ろうと思ったきっかけには、私や弟の自立があったと、後から聞きました。子どもたちが巣立って初めて、自分自身の人生をどうするか、そこに気づいたのだと思います。

子どもは、とてもありがたい存在ですが、一生そこにべったり関わることもないのです。ひとりで生きていけるようにするのが親の役割で、その役割が終われば次のステージに進むべきなんだろうと。

立ち止まる
今、私は人生の踊り場にいるなって気づきました。登り切った階段を見下ろして、今から登る階段を見上げて、ひと息のところです。
正直、すべてが空虚で、空っぽになった気持ちになっています。だからあらためて充電しなきゃと思います。ここに自分の半生を振り返りながら、好きなこともやりたいことも見えてきたし、思いもしっかりとしてきました。今は、次に飛び立つための深呼吸をしている時期なんだと思えるのです。「本当におつかれさま」そして、「さあ、次へ進もう」そんな時なのです。

余談
私はよく移動するので、「立ち止まると死んでしまうんじゃない?」と言われたりします。そんな私でもあるんです踊り場タイム。だから、うちでごはんを作って、食べて、誰かに食べてもらって、そしてしっかり深呼吸して、次に進みたいと思っているところですから、安心してください。

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