猫は化ける動物である2

1.入院といいつつ。

彼女(ウチの仔)は、今まで2回腎不全で静脈点滴のために入院している。
この2回の出来事がとても似ているので、とくに時間がたつほど、それがどちらの入院での出来事だったか、怪しくなってくる。

念のためで訪れた病院で、水腎と腎不全の診断をされたこと。
皮下輸液より即効性の期待できる静脈点滴を選んで入院を決めたこと。
なか1日の一時帰宅をはさんで、左右の前脚で順番に点滴をしたものの、期待したほどの結果は得られず退院する運びとなったこと。
ざっくりいえば、これらを5年という歳月を隔ててマルッと繰り返したことになる。

繰り返し、といえば、私がすっかり動転してまったことも2回の入院を通じて同じだった。違うのは、初回の入院時は、もう1猫もすでに腎不全を罹患しており、1猫を通院しつつもう1猫が入院になったのに対し、2回目の入院時にはもう1猫はすでに虹の橋を渡ってしまっていたことだ。
ちゃんと寝て食べてという型どおりの生活がズルズルと崩れていく。
そのなかで毎日仕事に行かなければならないのは、正直しんどい。私にとって仕事の位置づけは、はっきり生活のためと考えることにしている。自己実現のような青い気持ちはとうの昔に忘れている。いっそ働かなくてよければどんなにかいいのにと、朝、目覚ましのアラームを止める時、気合をいれて布団をはねのける瞬間に焦がれてしまう。
けれど一方で、それによって社会とか世間、世界につなぎとめられていると感じる瞬間もある。
たとえば、仕事に没頭し、大事な猫が大病だという現実すら忘れていたのに気づくとき、仕事は人生の軸ではないけれど、ギリギリのところで生活を維持する引き留め役であることを実感する。仕事も含めて「ケ」の暮らしのありがたみを思い知る。
それが損なわれて初めてそこにある当たり前のありがたみに気づくという、なんとも今更な自分をとても残念に思う。

ともあれ、似かよった部分が多いうえ、私自身とうていベストとはほど遠い状態になってしまったこともあって、いくつもの記憶がごちゃまぜになって、改めて思い出そうとすると、それが何回目の入院だったかはっきりしないものもある。
しかし、そのなかで、ひときわ鮮やかに印象に残っているのは、この仔の想像を超えた生きる力を感じた、一時帰宅のときのことだ。


2.一時帰宅の提案

当時、かかりつけの病院は、週1回休診日をもうけていて、それにあわせて先生から一時帰宅の提案があった。
「休診日でも入院を続けることはできますが、スタッフも少ないのでどうしても目がゆき届かないし、何より病院で過ごす猫ちゃんのストレスも考えると、この日に一時帰宅をはさむのもひとつの方法です」

私は喜んで同意した。
より可能性の高い手段として入院を決めたものの、猫の気持ちを考えると、とても心が痛かった。
少しでも家でゆっくりしてほしい。
そして、できることなら、次の入院に耐える力を養ってほしい。

春とはいえ桜のころの朝夕は、室内でまだうっすら寒さを感じることがある。
私は、彼女が過ごしやすいように、自宅のケージを整えることにした。
このケージは、彼女が我が家にきたとき、保護団体であったNPOの方から提案された。
人慣れしていないしデリケートな性格なので、最初はケージを使ったほうがいいと思います、その方は言われた。
ケージ(檻)というイメージもあったが、猫には狭いところや囲われたところを好む性質があり、使ってみると猫にも人にも便利なアイテムだと気づいた。
最初こそは、隔離のためのケージであったが、すぐにケージの扉は開け放って使うようになり、猫たちは気分にあわせて自由に出入りしていた。
このケージを、当初の使いかたをすることで、マイペースにすごしてもらえるだろうと、私は考えた。

1階にトイレを設置。
いつものフード付きトイレは大きすぎるので、予備のトイレを使うことにして新しい猫砂の中に少しだけ元のトイレから持ってきた猫砂を混ぜる。そして寝床になる2階に毛布を足して作業は終了した。
これで大丈夫。
私は、意気揚々と空のケージを抱え病院へ向かった。