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《メーカーズシャツ鎌倉》創業者「貞松良雄さんの働き方」を学ぶ

高品質のワイシャツ専門店
『メーカーズシャツ鎌倉=愛称:鎌倉シャツ』
創業者・貞末良雄さんの「働き方」を学ぶ

1はじめに 
(1)「温故知新」の視点から探す「自分らしい仕事・働き方」

この原稿は、・鎌倉シャツ創業者・貞末良雄さんの人生に関する出来事を年齢順に表示しています。その目的は、ビジネスで活躍した人達の情報を参考に、「自分らしい仕事・働き方」を見つけ出すためです。社会には、自分の将来をイメージできない人が多くいます。生涯設計が曖昧だと、中途半端な人生に終わったりします。そんな不安を感じている人に役立つ格言が、「温故知新=故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」です。 
「温故知新」は、「自分らしい仕事・働き方」を探すうえで有効な思考法です。ビジネスで頑張っている人達の情報を収集・分析していくと、必ず自分の明日につながるヒントが浮かんできます。自分の未来が曖昧な人は、「温故知新」の視点から既存情報をヒントに「自分らしい仕事・働き方」を探してください。

(2) 貞末良雄さんから学ぶ「自分らしい仕事・働き方」

貞末さんの仕事人生は
①ヴァンヂャケット時代(約12年間)
 ヴァンヂャケットのため懸命に働くが倒産、退社
②スーパー・ヤオハン時代(約2年間)
 一本気で攻撃的な性格を反省、「バカになり」周囲の人達との関係を改善
③雇われ経営者の時代(約13年間)
 自分の方針が実行できず、雇われ経営者の限界を自覚
④鎌倉シャツの時代(53歳で開業)
 高品質のワイシャツ販売を開始、72歳でニューヨークに出店
・・・・となります。
貞末さんが、雇われ経営者の限界を感じ、高品質のワイシャツ専門店を開業したのは53歳です。遅れてきた起業家でしたが、着実に業績を拡大、62歳にしてビジネスの聖地「丸ビル」に出店します。そして72歳、ニューヨークのど真ん中マディソン・アヴェニューに進出します。遅咲きの仕事人生でしたが、起業家として見事な実績を残しています。

注)貞末さんの「仕事・働き方」は『シャツとダンス 「アパレルの革命児」が起こした奇跡』(著者:玉置美智子 発行所:文藝春秋)を参考文献にしています。

2 貞末さんの「仕事・働き方」のステップ

貞末さんの「仕事・働き方」に関する主なステップです。「どのような仕事に取組み、どのように働いたか?」がわかります。個々の情報を参考に、「自分らしい仕事・働き方」を考えてください。

《誕生・・・・25歳頃》
照明メーカーに就職、商売人を目指して退社

(1) 1940年 韓国の釜山で誕生
父親が事業をしていた韓国で9人きょうだいの3男坊として生まれる。終戦の混乱により全財産を失い、父の故郷である山口県柳井に戻る。
 
(2) いじめっ子に抗議
小学1年生の時、いじめっ子に「いじめをやめろ」と注意する。いじめっ子への抗議をきっかけに、喧嘩で負けない子供に育っていく。

(3) 「ヴァンヂャケット」の設立
1951年 石津謙介さんがヴァンブランドの高級紳士服会社「石津商店」を設立する。レナウンを退職した時、退職金代わりに貰ったバラックの社宅にミシンを持ち込んで事業を始める。製造した高級紳士服は驚くほど高かったが、人気となり飛ぶように売れていく。高級服らしい店名にすべく、3か月後に社名を「㈲ヴァンヂャケット」に変更する。
 
(4) 中学生になり広島に転居
1953年 中学生になり、父親が衣料品店を営んでいた広島に転居する。貞末家の子供達は、教育のため中学になると広島の学校に転校する。
 
(5) 1954年『男の服装』創刊
ファッション雑誌『男の服装(後のメンズクラブ)』が創刊になる。婦人
画報社は、『婦人画報』のような高級男性ファッション雑誌の出版を計画、
石津謙介さんも執筆陣に加わり創刊する。(1963年、『男の服装』は『メン
ズクラブ』に名称変更)
 
(6) アイビールックの特集記事
1956年『男の服装』で、アイビールックの特集記事を掲載する。米国東海岸の名門大学の学生に人気のファッションがアイビールックだった。
 
(7) 1959年 アイビースーツの発売
石津謙介さんはアイビースーツを発売、ヴァンヂャケットは若者向けブ
ランドになる。
 
(8) 一浪して千葉工業大学に入学
広島大学の理系を志望して受験するも不合格になり、一浪して千葉工業大学の「電気工学科」に入学、ゼミは「道路照明」だった。
 
(9) 1964年 照明メーカー「和光電気」に就職
就活で苦戦するが、道路照明の和光電気に入社する。卒論が「高速道路
における照明が運転手に与える輝度による障害防止」だったことで、照
明機材やランプを設計・製造する和光電気に採用される。

(10) 週刊「平凡パンチ」の創刊
1964年4月創刊「平凡パンチ」が、アイビールックを取り上げる。「平
凡パンチ」はマガジンハウスの前身となる平凡出版が創刊したファッシ
ョン・流行情報・風俗・グラビアなどを掲載する男性向け週刊誌だった。
1966年には発行部数が100万部を突破する。1966年10月集英社が「週
刊プレイボーイ」を発行する。
 
(11) 1965年「男のTPO辞典」の出版
石津謙介さんが「いつ、どこで、何を着る」についてのTPO本を出版す
る。石津さんは、ドレスコードのなかった日本で、「time(時間)place(場
所)Occasion(場合)」によってファッションルールが異なる「TPOの概念・いつ、どこで、何を着る?」本を出版、メンズファッション界の
リーダーになっていく。ヴァンヂャケット入社後、倉庫番をしながらも
石津謙介社長のようにオシャレになりたくて、この本を読む。
 
(12)「和光電気」退社、商売人が自分の仕事
会社で、自分がどのように働けばいいかが見えず退社する。研究室でやっていく自信もなく、工場勤務になってもモノを作る器用さがなく、会社での働き方について悩む。そんなとき、父親の「お前が一番商売人に向いている」といわれた言葉を思い出し、「自分のDNAは商人だ」と気づく。
 
(13) 商売人の仕事探しで苦戦
自分は「商売人向き」だと信じ、商人的仕事を探す。仕事を通じ人間力
を鍛えるため、朝6時から夜12時まで働く厳しい世界に強い関心を持
つ。丁稚奉公的な繊維関係の就職先を探し東京の生地問屋をいくつか訪
問するが、大学の工学部を出た人が働く会社でないといわれる。

《26歳・・・・33歳頃》
1966年ヴァンヂャケット入社、倉庫の合理化

(14) 父のコネでヴァンヂャケット入社
再就職のため繊維関係の会社を回るが、工学部卒業があだになりどこも
不採用となる。就職先が見つからない息子を心配して、ヴァンの特約店
をしていた父の紹介でヴァンヂャケットの専務面接を受け採用してもら
う。入社式には、東京のアパートから夜行列車で大阪に向かい、本当に
採用されたのか不安な気持ちで臨み社員となる。
 
(15) 入社2日目 倉庫担当に異動
営業部に配属されるが、営業部長から「ファッションセンスがなく営業マンとして外に出せるない」と評価され、営業部門から商品倉庫係に異動となる。他社で働いていたことで普通の新人より遅れての入社になるので、遅れを取りもどそうと朝は誰よりも早く出社し倉庫の整理と掃除をする。倉庫係をしながら物流の勉強を始める。
 
(16) 新物流システムを完成
倉庫管理に関する本を探しアメリカの専門書「フィジカルディストリビューシャン=倉庫は商品を流通させる場所であって、保管するところではない」を手に入れ学習する。会社にコンピュータシステムの導入を提案し、物流のあり方を変えていく。自ら開発した「オーダーエントリーシステム」という物流合理化の仕組みにより、1枚の注文書で、自動的に商品を発送する物流システムを完成させる。
 
(17) 1969年 銀行の融資停止
週刊新潮が、石津謙介社長に関する糾弾記事が掲載する。記事を読んだ
メインバンクの三和銀行(現在の三菱UFJ銀行)は、1969年1月ヴァ
ンヂャケットに対する融資を停止する。
 
(18) 丸紅が運転資金を融資・返済
1969年、三和銀行に変わり商社の丸紅から3億5千万円の融資を受ける。
ヴァンヂャケットは、融資金全額を9月から12月の4か月で返済する。

(19) ヴァンヂャケットの収益性に注目
丸紅は、ヴァンヂャケット程度の会社なら融資金3億5千万円の返済に5年ぐらいかかるだろうとみていた。ところが、秋・冬物の売上で春先の融資を全額返済したことで儲かる会社だと知り、さらに関係の強化を図ろうとする。
 
(20) 三菱、伊藤商事も資本提供
石津謙介社長は丸紅を牽制するため、三菱商事、伊藤忠の資本を受け入れ
る。3商社との関係が強くなったことで商社からの出向社員が増加、そ
の影響力が強まる。
 
(21) 石津社長がやる気を喪失
世の中「金を出せば口も出す」のは当たり前で、経営方針について商社の影響力が高まる。石津謙介社長は、自分の権限が制限されてゆくことで経営に関するやる気を失っていく。
 
(22) ヴァンヂャケットの売上増加
石津健介社長の思いと関係なく、ヴァンヂャケットは人気ブランドとなり順調に売り上げを拡大していく。1970年度の売上69億円、 1971年度97億円、1972年度売上126億円と増加させる。
 
(23) 業務改善で嫌われ者
倉庫の物流改革に続きカネ・モノの業務改善を進め、単なる倉庫番でなく
社内で煙たがれる存在になる。一本気な性格から上司や同僚とぶつかり、
売り上げ主義の営業部門から嫌われる。
 
(24) 商品計画部に異動
営業部門に理詰めで改善を求めていくと、「あいつのせいで売上が作れない」と営業マンから攻撃される。ついに、「あいつを物流から外せ」の声で、商品計画部に異動となる。
 
(25) 1973年 オイルショックの発生
オイルショックにより日本経済は大混乱、繊維業界も不況に陥る。しかし、商社系の人達はヴァンヂャケットの成長にむけ積極経営を続ける。

《34歳・・・・38歳頃》
 商社系の人達が暴走、ヴァンジャケット倒産・退社

(26) 販売予算180億円で売上300億円
商品計画部に異動し、1974年度売上予算を180億円に設定する。ところ
が、実際の決算では予算180億円を大幅に上回り売上が300億円になる。
 
(27) 商社系の人達が商品を独断発注
180億円の売上計画に対して売上が300億円を達成したことで、増加する売上を実現する商品がどこから来たかが問題になる。管理課長として役員会で「誰かが、かってに300億円分の商品を発注したことになる」と発言する。商社からきていた制作本部長は、「制作本部の意図で20億や30億の商品を作って何が悪い」と開き直る。
 
(28) 商社系の人達による拡大路線
商社系の人達は、商社の資金力をバックに無計画な売上主義に走る。彼らはヴァンヂャケットを1000億円企業にしようと拡大路線を進める。石津社長は役員会にも出席せず、経営実務は副社長で長男の祥介さんに任せる。
 
(29) 百貨店への委託販売を実施
売上予算を超える発注商品は、百貨店に対し「委託販売(返品可能)」され
ていく。ヴァンヂャケットは、それまで地方の専門店と「買取り」で商売
をしてきた。しかし、営業マンは委託販売でも売上になるので、返品のこ
とを考えず百貨店へ大量に納品する。
 
(30) 急進的な第1組合が誕生
1974年10月、「経営陣の放漫経営」を糾弾するとして、会社の経営姿勢に疑問を持つ東京の社員達により急進的な第1組合が結成される。それに対して大阪では、東京の第1組合に反対して第2組合を設立する。しかし、第2組合を設立した主導者としてみられ第1組合から暴力を受ける。自宅への嫌がらせ電話も続き、家族を何度も奥さんの実家に避難させる。

(31)石津副社長の要請で営業部長に就任
1974年、組合結成された時期、石津祥介副社長から営業部長に任命される。1975年430億円の販売予算に対して452億円の売上を達成する。史上最高の売上になるが、この数字を達成するため返品伝票が握りつぶされる。返品はカウントされず、在庫はまたたくまに膨れ上がり150億円になる。
 
(32) 委託販売で返品在庫が急増
商社系の人達がヴァンヂャケットの中で影響力を高めていった結果、「ヴァンヂャケットの仕入れ金額=商社の売上金額」の表裏関係が成立する。商社の売上を増加させるためには、ヴァンヂャケットの仕入金額を増加させればいいわけで、必ず前年比プラスになるよう仕組まれる。ヴァンヂケットは商社の作った商品を委託販売で百貨店に納品するので売上は増加するが、返品で在庫が急増する。1976年2月決算は、売上441億円、在庫211億円となる。
 
(33) 在庫処分バーゲンを実施
年に2回行われていた通常のバーゲンでは大量の在庫処分ができず、オイ
ルショックをきっかけに頻繁にバーゲンが実施される。ブランド価値は2
束3文まで低下してゆき、若者のヴァンヂャケット離れが起きる。
 
(34) 1976年2月期 29億円の赤字に転落
在庫211億円で、ようやく商社からの過剰仕入れはとまる。確実な資産のない不健全な企業に銀行は金をかさず、頼りは商社融資になる。1976年末、資金繰りに困ったヴァンヂヤケットは、丸紅に30億円の融資を依頼する。
 
(35)初めて褒めてくれた上司・石津社長
 石津謙介社長から突然の電話があり、話しをしたいので本社に来てくれと言われる。課長以上の管理職60人は会社の改善策を提出したが、藁半紙1枚で要点だけを書いたレポートを高く評価してくれる。会社勤めを始めて、初めて上司から褒められる。その後、頻繁に東京に呼び出され、会社の現状を説明する。天才クリエーターとして卓越した才能を持っているが、経営マネジメントに疎い石津謙介社長は、毎回苦渋の表情をする。

(36)1976年ロッキード事件が発生
1976年ロッキード事件が発生、丸紅社長など複数の逮捕者が出る。金銭の授受をしたのが丸紅・元繊維部長の伊藤宏専務でヴァンヂャケットの窓口だった人物である。逮捕劇により社内が大混乱するなか、丸紅は1976年末ヴァンヂャケットから依頼のあった30億円の融資を拒否する。
 
(37) 丸紅から新社長の派遣
1977年、丸紅の佐脇氏がヴァンヂャケット新社長に就任する。佐脇社長は
社内改革に取り組む。しかし、社内は組合運動で労使関係は完全に破綻、
主な支援商社である三菱商事と丸紅の確執問題などに翻弄される。
 
(38) 東京・本社に異動、物流改革に着手
佐脇社長から東京に来て、統括部長兼物流部長として物流改革をしてほしいとの要請を受け異動する。大阪では主のように社内を仕切っていたが、東京本社では第一組合(旗を振って社内を歩き、歯向かう社員に対しては取り囲んで殴る蹴るの暴行をする)はもちろん、幹部達もアンチ貞末だった。経営にうるさく口をだしていたことが疎まれる原因であった。人事異動も実施できず、不毛の議論が続きまともな経営が行えない。
 
(39) 1978年 会社更生法の申請
三菱商事がヴァンヂケットの支援打ち切りを決定、丸紅もこれ以上の支援を断念する。1978年4月、ヴァンヂャケットは東京地裁に会社更生法の適用を申請する。負債総額は400億円以上、当時としては戦後5番目の大型倒産となる。会社更生法を提出して6か月後、会社更生法での再建を断念し自己破産に切り変える。
 
(40) 5月末退職、再就職先は未定
5月末、退職する意思を会社に伝える。会社を去るまで、後輩たちの再就職の世話に明け暮れる。幸いヴァンヂケット出身者の受けはよく再就職には困らなかった。しかし、12年間ヴァンヂケットに勤務し、それなりの実績を残してきたのに自分の就職先は見つからない。その理由は、理屈っぽくて生意気だという噂が業界にながれており敬遠される。

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