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JR九州・元社長「唐池恒二さんの働き方」を学ぶ

《唐池恒二さんの「働き方」を学ぶ》

はじめに
(1)「温故知新」の視点から探す「自分らしい仕事・働き方」
この原稿は、JR九州元社長・唐池恒二さんの仕事人生に関する出来事を年齢順に並べています。その目的は、ビジネスで活躍した人の情報を参考に、「自分らしい仕事・働き方」を思い浮かべるためです。社会には、自分の仕事人生をイメージできない人が多くいます。生涯の仕事設計が曖昧だと、中途半端な人生に終わったりします。そんな不安を感じている人に役立つ格言が、「温故知新=故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」です。 
「温故知新」は、「自分らしい仕事・働き方」を探すうえで有効な思考法です。ビジネスで成功している人達の情報を収集・分析していくと、必ず自分の仕事人生に役立つヒントが浮かんできます。「自分らしい仕事・働き方」の目指すべき方向が見えてきます。自分の仕事人生が曖昧な人は、「温故知新」の視点から既存の仕事・働き方情報をヒントに、「自分らしい仕事・働き方」を想像してください。
 
(2) 唐池さんを参考に考える「自分らしい仕事・働き方」
唐池さんが、優れた成果を出した仕事の一部が
①旧国鉄時代、労使対立から業績の悪かったバス営業所を1年で優良事務所に変革しています。
②博多~由布院間に、高原リゾート列車「ゆふいんの森」を運行させます。
③博多~韓国・釜山簡に、「ビートル」の名称で高速艇を運航させます。
④大赤字のJR九州の外食事業部を3年間で黒字化します。
⑤九州の観光列車「D&S列車」のネーミングを担当します。
⑥豪華寝台列車「ななつ星 in 九州」を実現します。
・・・などになります。約3年周期で新しい仕事に挑戦し、優れた成果を出しています。唐池さんの仕事人生から自分に役立つ情報を探し出し、「自分らし仕事・働き方」を考えて下さい。
 
注)唐池さんの「仕事・働き方」は、『鉄客商売 JR九州大躍進の極意(著者:唐池恒二 発行所:PHP研究所)』『新鉄客商売 本気になって何が悪い(著者:唐池恒二 発行所:PHP研究所)』を参考にしています。

Ⅰ唐池さんの「仕事・働き方」のステップ

唐池さんの「仕事・働き方」に関する主なステップです。「どのような仕事に取組み、どのように働いたか?」がわかります。個々の情報を参考に、「自分らしい仕事・働き方」を考えてください。
 
《誕生・・・・大学時代》
大学時代は、柔道に打ち込み就活もおろそか!
(1) 1953年4月 大阪府で誕生
大阪府立三国ヶ丘高校を経て京都大学法学部に入学する。

(2) 高校・大学と柔道部に所属
高校・大学と柔道部、4年生の夏でも就活より柔道の試合を優先する。

《24歳・・・・29歳頃》
 国鉄で組合交渉を担当、国鉄バス棚倉営業所を改革

(3) 国鉄に入社、5年ほど組合交渉を担当
営業部総務課に配属され、5年ほど組合との団体交渉にあたる。当時の国鉄の多くの職場は、駅長、助役などの管理職と一般の職員との間に激しい対立があった。
 
(4) 国鉄バス・棚倉営業所の所長
1982年、労働組合が強く管理職が大変という噂の福島県・棚倉営業所に所長として赴任する。当時の国鉄は「公共企業体」とよばれ全国の鉄道を一括運営する組織だった。労使間の激しい対立や、職場規律の乱れも目に余るようになり、まともな経営をできる状態ではなかった。
 
(5) 無視される「おはよう」の挨拶
初出勤の日、職員に対して「おはよう」の挨拶をするが誰も応えない。
100人位の職員に対して、毎日率先して挨拶をすることを自分に課す。
 
(6) 2週間後、「おはよう」の返事
「おはよう」を繰り返していると、職場のボスが口を開いてくれ雰囲気が変わる。いつものように職場のボスに挨拶すると、「所長さんはどこからきたんかね」と訊ねられ、若い職員にお茶を出すように指示してくれる。その翌日から、職場で「おはよう」の返事を受け始める。
 
(7) 2メートル以内の会話
先輩から教わったことの一つに、「どんな相手でも、毎日の挨拶など2メートル以内で会話するとお互いの気持ちが通じてくる」があった。棚倉営業所でも、ボスと2メートル以内の会話が成立すると、営業所の職員との距離があっという間に縮まる。
 
(8) 営業所の業績が急上昇
2メートル以内の会話を通じて職員との信頼関係を作り出す。1年間全職員で営業活動に取組むと業績がみるみるうちに上昇、荒廃していた職場が優等生評価の営業所に変わる。

《30歳・・・・35歳頃》
高原リゾート列車「ゆふいんの森」を実現
 (9) 国鉄・大分鉄道管理局に異動
1983年大分鉄道管理局現・JR九州大分支局へ異動、人事課長となる。
 
(10) 1987年 国鉄解体でJR九州が誕生
国鉄の解体にともないJR九州が誕生、総務部勤労課の副課長になる。1982年に第一次中曽根内閣が発足、最後の国鉄再建策が検討され始めた。5年後に「日本国有鉄道改革法」にもとづき、実質的に経営破綻していた国鉄の分割民営化が実施される。本州の東日本、東海、西日本は都市圏輸送や新幹線で、安定した経営が見込まれた。しかし、赤字路線を多く抱える北海道、四国、九州のJR3社は、経営が不安視される。この3社を総称して「三島」という言葉もうまれた。JR九州は、屈辱と逆境からのスタートだった。
 
(11) JR九州の大半が赤字路線
JR九州の発足当時、鉄道の旅客収益は1,069億円、営業赤字が288億円だった。この赤字を補填するため、3,877億円の経営安定基金が設けられる。ちなみに、初年度の経営安定基金の運用益は283億円(当時の長期金利の平均が7.3%)で、ほぼ営業赤字を補填することができた。その後、金利の低下で運用益は減少したが、経営努力で赤字幅を少なくする。
 
(12) 九州の車両は「本州のお古」
国鉄時代の九州の車両は本州からのお古ばかりだった。初代社長は、JR九州らしい新車両の導入を指示する。新車両の開発にあたり、「グッズデザイン イズ グッドビジネス」を提唱する。その新車両デザインをになったのが、豪華寝台列車「ななつ星」を実現した水戸岡さんだった。
 
(13) 流通業界の丸井で研修
1987年秋、社長の指示で、意識改革のため日本で最初にクレジットカードを発行した丸井・本社で4か月間の研修を受ける。丸井の「何一つ隠しごとをしません」との姿勢から、多大な成果をえる研修となった。
 
(14) 1988年JR九州の販売副課長に異動
鉄道の商品企画や宣伝が仕事で、新列車の実質的な営業責任者になる。

(15)「由布院特急」の事業化を担当
社長指示で「博多~由布院温泉」を結ぶローカル特急の事業化を担当する。この特急「ゆふいんの森」に始まり、JR九州の観光列車は「デザイン&ストーリー列車」とされ、その集大成が「ななつ星」となる。
 
(16) 特急のコンセプトは「高原リゾート列車」
博多から由布院まで観光特急列車を走らせるというのは画期的な構想だった。どのようなコンセプトの列車にするか、由布院温泉の再生を目指すカリスマから今後の方向性を聞く。由布院温泉は別府の奥座敷として人気があった。しかし、団体旅行が中心の高度成長期になると部屋数の少ない由布院は敬遠される。巨大なホテルは由布院にあわないと判断し、滞在型の高原リゾート温泉に転換することを決める。この話から、「民芸調」であった列車のコンセプトを「高原リゾート型」に変更する。
 
(17)1989年 特急「ゆふいんの森」運行開始
車両デザインは「高原リゾート列車」らしく、車体は落ち着いた緑色、車内は木材を使い森をイメージする。座席は普通の列車より一段高く、車窓の景色を見下ろす設計にする。「ゆふいんの森」は人気となる。
 
《36歳・・・・39歳頃》
博多~韓国・釜山港の間に高速艇を運行
(18) 1989年 船舶事業部・営業課長に異動
JR九州・石井初代社長の構想である博多港と韓国・釜山を結ぶ高速艇事業の担当課長になる。JR九州はアジアに目を向け、まずは隣の国の韓国との交流に力をいれようとした。福岡と釜山は200キロしか離れていないが、その間には荒海で名高い玄界灘があった。この玄界灘用に、ジェットエンジンで浮かび、波の影響を受けない水中翼船を導入する。

(19) リーダーは宇高連絡船の元船長
JR九州には船の経験者がいなく、石井社長が元・宇高連絡船船長の大島さんをスカウト、高速艇事業のリーダーとする。
 
(20) 航路開設に佐世保の漁協が反対
JR九州は、釜山航路の前に、博多~長崎オランダ村航路の開設を目指すが漁協の反対を受ける。高速艇が佐世保湾を毎日通過しても漁協の人達の職場を荒らすわけではないが、国内航路を新設する場合は航路に隣接する漁協に状況を説明し了解を取るのが習わしだった。
 
(21) 就航ぎりぎりで漁協の了解
長崎県内の漁協組合長を集めた説明会でも、漁業に影響はないと説明するが反対の大合唱となる。国鉄時代の団体交渉の雰囲気だったが、大島部長と2人で何度も訪問して就航ぎりぎりで了解をえる。
 
(22)船名を「ビートル」とネーミング
高速艇の船名は、船体を2m浮上させて高速走行する水中翼船の特徴「揺れない、力強い、普通の船と違う」をイメージさせるようにする。ズングリむっくりした船体と、角のように前方に突き出た水中翼からカブトムシが浮かんでくる。「カブトムシ」を英語に変え「ビートル」と命名、「海飛ぶカブトムシ」をキャッチコピーにする。
 
(23) 1990年 国内航路の開業
ジェットエンジンの水中翼船が、博多~長崎オランダ村間に就航する。水中翼船は、ボーイング社が開発したウォータージェット推進式で、水中翼により船体が海面から2m上がり、3mの高波でも安定航行ができる。
 
(24) 国際航路開業の準備に苦戦
国際航路に必要な「税関=C、出入国管理=I、検疫=Q」に関する政府機関との交渉に手間取る。「税関、出入国管理、検疫」は、それぞれ財務省、法務省、厚生労働省が管理し、港で実際の業務にあたる職員は、国家公務員になる。JR九州の釜山~博多の航路開設の伴い、「税関、出入国管理、検疫」の受け入れ準備が必要であり、その準備に手間取る。

(25) 政府機関の姿勢が変化
「税関、出入国管理、検疫」に関し政府機関の交渉に悪戦苦闘するが、開業2か月前から急に政府機関の協力が得られる。
 
(26) 1991年 国際線の就航開始
「ビートル」と名付けた波の影響の少ない水中翼船が、釜山~博多間に就航する。就航1年目の乗客数は4万人余りで、予定していた10万人より少ない数字だった。しかし、11年後の2002年30万人を突破する。
 

《40歳・・・・43歳頃》
3年間で、赤字の外食事業を黒字化
(27) 1993年 JR九州・外食事業部次長に異動
外食事業部の黒字化が使命だった。1992年度の外食事業の業績は、売上25億円 営業赤字8億円でJR九州のお荷物だった。
 
(28) やる気のない 死んだような店
自ら店舗を覆面調査すると、「覇気がない、活気がない、元気がない、やる気がない、気づきがない」と、死んだような店になっていると感じる。赤字を黒字にするには「気」が必要と思う。
 
(29) ふて腐れた雰囲気の店長会議 
初回の店長会議、出席していた店長はネクタイをしている人も少なく、髪がボサボサでひげ姿の人もいた。当時のJR九州は、鉄道事業の効率化であぶれた社員が関連事業に異動していた。鉄道から外された人たちが集まった店長会議は、どこかふて腐れた、どこか寂しい雰囲気に包まれていた。
 
(30)先生は元ロイヤルホスト社員
元ロイヤルホスト・井上恵次さんの名著『店長の仕事』を教科書に、JR九州の外食事業部に所属する元ロイヤルホスト社員・調理の中園さん、店舗開発の手嶋さんを先生として、外食事業部の黒字化に取り組む。

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