見出し画像

テレビ通販・ジャパネット「創業者・高田明さんの働き方」を学ぶ

《高田明さんの「仕事・働き方」を学ぶ》

高田さんは、テレビショッピングで有名な「ジャパネットたかた」の創業者です。ジャパネットのテレビ通販は、MC・高田さんの独特のトークで人気になりました。テレビでは「高田さん=軽妙なお喋りをするおじさん」のイメージがありますが、経営者としての顔はテレビイメージと大きく異なります。企業成長に向け全力で仕事に取組み、「一生懸命」働き続ける人でした。これから取り上げていく高田さんの「仕事・働き方」については、『伝えることから始めよう ジャパネットたかた創業者 高田明(著者:高田明 発行所:東洋経済新報社)』を参考にしています。

1高田さんが語る「自分の仕事・働き方」

自分のいいところは、流れに身を任せ、与えられた環境に順応しながら「常に一生懸命に全力を尽くす」ことだとしています。
 
高田さんの「一生懸命」に関連する言葉は次のようになります。
 (1)私の生き方は「『一生懸命』に今を生きる」ことです。
毎日毎日、その日しなければならない、その日できることを、一生懸命、自分の力の300%を注ぎ込んで走り続けます。全力で今を生きることが成功に導いてくれます。
 
(2)「一生懸命」に今を生きていれば、人生は絶対に拓けるようになって
います。

 
(3)目の前のことに「一生懸命」やっていれば、自然と次の課題が見えて
きます。

 
(4)毎日「一生懸命」に生きていれば、ジャンプアップする瞬間がきます
 
(5)「一生懸命」に生きていれば、そのときは役にも立たなくても、いつ
か役に立つ時が来ます。

(6)これだけ社会の変化が速くなれば、未来のことはだれも予測できません。
わかるはずのない明日のことに頭を悩ませて、そこに心がとらわれていたら、今がおろそかになります。今を「一生懸命」に生きるということが、全ての悩みを解決します。

2貴方の「自分らしい仕事・働き方」

高田さんの「仕事・働き方」を参考に、
①自分らしい仕事とは、どのような仕事なのか?
②自分らしい働き方とは、どのような働き方なのか?
③どのようなやり方が、事業の成功につながったのか?
④どのような困難に直面し、どのように克服したのか?
⑤仕事を通じて、社会にどのように貢献したのか?
などについて、高田さんの事例を検証しながら、貴方の「自分らしい仕事・働き方」を考えてみてください。

Ⅰ「仕事・働き方」のステップ

高田さんの「仕事・働き方」に関するステップを年齢順にまとめました。「どのように仕事に取組み、どのように働いたか?」について、具体的な内容が学べます。自分の「仕事選び、働き方」を考える材料にしてください。

《0歳・・・・22歳頃》

大学でESSに入部、英語、パチンコ、麻雀の日々
 
(1) 1948年11月 長崎県の平戸で誕生
両親と兄・弟・妹の6人家族だった。
 
(2) 父が商店街で写真館を開業
小学校の低学年の頃、父が商店街に家を買い写真館を始める。
 
(3) 中学時代、塾で英語を学習
平戸という異国情緒な街で育ち、英語に興味を持つ。
 
(4) 大阪経済大学に入学、ESS入部
大学の入学式の日にESSに入部、英語の学習以外はパチンコと麻雀の生活を送る 

《23歳・・・・24歳頃》

ヨーロッパに駐在、帰国後に始めた翻訳業は失敗
 
(5) 就職先はネジ製造機械メーカー
義理の叔父から紹介された半村機械製作所に、英語力が評価され入社する。
 
(6) 入社2年目、ヨーロッパで通訳を担当
社長から「海外にいってこい」と言われ、ドイツを拠点にヨーロッパのほとんどの国を回り通訳を務める。
 
(7) ヨーロッパに8か月、歯の治療のため帰国
歯医者さんにいっても歯の痛みが治らず、日本に帰国する。

(8) 翻訳の仕事をするため退社
帰国後、親友と翻訳の仕事をするため会社を退社する。
 
(9) 事業計画があまく翻訳業は失敗
親友と2人で営業するが人脈もコネもなく翻訳業は失敗する。

《25歳・・・・29歳頃》

長崎に戻り、カメラ店の仕事に全力投球
 
(10) 実家のカメラ店の手伝いを開始
平戸に帰り、父や兄の勧めで実家のカメラ店の手伝いを始める。
 
(11) 猫の手も借りたい実家のカメラ店
団体観光旅行が全盛の時代だった。実家のカメラ店は、平戸にあるホテルの宴会写真や観光地での記念写真を撮影・販売していた。社員、アルバイト、家族総出で働き、猫の手も借りたい忙しさだった。
 
(12)観光写真でマーケティングを学習
どの団体が写真を買うか、地域・職業・年齢・性別で購買意欲の違いから写真撮影、販売方法を変えるといったマーケティング知識を学んでいく。
 
(13) 27歳、しっかり者の妻と結婚
仕事で知り合い、人生と仕事のパートナーとして最高だと思い結婚する。
 
(14) 「カメラのたかた」松浦支店を出店
支店を任され、月商55万円を1年で月商300万円にする目標を立てる。
 
(15) 工事現場の撮影フィルムを集配
公共事業は、どの現場でも役所に工事写真を提出する。建設現場を回り工事写真の現像とプリント発注を継続的にもらえるようにする。
 
(16) 1年で月商300万円の目標を達成
工事写真の売上に加え、 時計店や洋品店と共同で出張販売を行ってカメラの売上を伸ばし、目標の月商300万円を達成する。
 
(17) 1977年 コニカの自動焦点カメラ発売
自動焦点小型カメラの登場で、誰でも簡単に撮影できるようになり、写真市場が拡大する。

《30歳・・・・36歳頃》

「無料プリント」サービスに「当日渡し」で対抗
 
(18) 1979年 佐世保支店を開設
地元ホテルの宴会写真や建築現場のフィルム集配など、地道な努力で店の経営基盤を固めていく。
 
(19) フィルム現像の取次店を開拓
現像取次店の看板を出してくれる街の小売店を開拓していく。
 
(20) プリント代無料の時代に突入
写真のプリント代は1枚35円が標準だったが、30円、20円と下がっていく。大手カメラ店が現像と同時プリントなら0円の無料サービスを始める。
 
(21) 23分仕上げの現像機を導入
1台800万円の23分現像機を5年リース・月15万円でお店に導入する。
 
(22) 当日渡しの「有料プリント」で対抗
23分の現像機導入により、取次店に朝フィルムを出すと夕方プリントがもらえる仕組みを完成、プリントスピードで無料サービスに対抗する。
 
(23) 「無料プリント」は、当日渡しが困難
「無料プリント」サービスを展開する大手写真店は、フィルムを福岡に集めて現像・プリントするため、当日渡しはできなかった。
 
(24) 価格以外の競争戦略を学習
「プリント当日渡し」が人気なことから、商品を買っていただくには価格と同じレベルで商売のスピードや品質が重要だと学ぶ。

《37歳・・・・39歳頃》

ソニーのビデオカメラ販売を開始
兄弟がそれぞれ独立、自分の会社「㈱たかた」を設立
 
(25) 1985年ソニーがビデオカメラ発売
テレビとつなぎ撮影画像が見られる家庭用8ミリビデオカメラを発売する。商品の機能に驚き、これは売れると思う。
 
(26) ソニーの特約店になり訪問販売
ソニーの販売実績がなく、何度もお願いして特約店になり販売を開始する。現像依頼を受けていたお宅に訪問販売する。
 
(27) 「ビデオカメラ」販売で店は成長
「カメラのたかた」は大きくなり、佐世保の売上だけで2億円を超える。長崎県で1番の写真店の売上は6億円ぐらいだった。
 
(28) 兄弟3人がそれぞれ独立
兄弟がそれぞれ独立の道を歩むことにする。兄が「カメラのたかた」を引き継ぎ、私と弟は自分の会社を設立する。
 
(29) 自分の会社「㈱たかた」を設立
1986年 自分の会社を設立、3店舗を経営する。新会社は社員が10名以上になり、アルバイトなどが12名位だった。
 
(30) ラジオによる宣伝を開始
1987年、特売のチラシに掲載していた「フィルム1本5円」の特売情報をラジオで放送してみる。
 
(31) ラジオカーが店に来て放送
ラジオカーに乗ってレポーターがお店に来てくれ、特売品情報を放送する。効果はあり、ラジオで特売情報を流すと店の前を通り過ぎていた車が店の前に止まるようになる。
 
(32) ラジオコマーシャルを開始
カメラ店「たかた」を知ってもらうためラジオコマーシャルを始める。本当はテレビCMを放送したかったが、予算がないためラジオCMにする。

《40歳・・・・43歳頃》

ラジオショッピング開始、全国放送に挑戦
 
(33) 1989年 ソニーが「ハンディカム」を発売
パスポートサイズのビデオカメラ「ハンディカム」が発売される。手のひらサイズで、重量も従来2㎏位だったが790gに軽量化される。絶対売れると思い全力で販売に取り組み、九州の特約店で売上1位になる。カメラ屋さんが、ビデオカメラを売り、ワープロが発売されればそれも売り、どんどん扱い商品を増やす。そのころのカメラ屋さんで、ビデオカメラ・ワープロ・パソコンなどを積極的に販売にした店が、家電量販店(ビックカメラ・ヨドバシカメラなど社名にカメラが付いている会社)に発展していく。
 
(34) ラジオショッピングの規制
九州では大手の家電量販店やカメラ店が、年2回(多くて8回)ぐらいラジオショッピングの30分番組を放送していた。ラジオショッピングに関して、年間の放送回数や表現内容の厳しい規制があった。
 
(35) 「㈱たかた」ラジオショッピング開始
1990年、「たかた」のラジオショッピングを開始する。ラジオカーが店まで来てくれ、5分間で富士フィルムのコンパクトカメラを販売する。
 
(36) ラジオショッピングは大成功
2万円する富士フィルムのコンパクトカメラを、5分間で50台販売する。どの程度注文が来るかわからなかったが、電話がなりっぱなしになる。
 
(37) 放送回数の拡大に挑戦
ラジオショッピングが商売になるわかり、放送回数を増やしたくなる。長崎放送のラジオショッピング枠は年2回しかなく、回数増の方法を検討する。

(38) ラジオショッピングを長崎以外で放送
放送回数を増やす方法を考えているうちに、長崎放送にこだわらず九州、あるいは全国で放送すれば回数の増加に繋がると気づく。各放送局をまわり「たかた」のラジオショッピングの放送をお願いする。その営業活動が実り、1991年1月中国・四国の4局(岡山、広島、鳥取、愛媛)でラジオショッピングを開始する。
 
(39) 売れるものは何でも販売
カメラから始まって、ワープロ、パソコンとなんでも売っていく。ラジオショッピングを始めた当時、ラジオショッピングでは商品を見られないので、1万円以上の高額なものは売れないとされていた。そんなことを知らず、2万円のカメラから始まり、2年目からはビデオカメラやシャープの書院パソコン(価格248,000円の書院パソコンを5,000台近く販売)など10万円を超える高額な商品を販売する。
 
(40) 注文増に合わせ社内体制を整備
ラジオショッピングの放送回数増加で注文が増え、社内体制づくりが必要になる。最初は電話回線1~2本で始めたが、12、24本と回線を増やし電話を受ける人も増員する。電話受付にパソコンはなく、注文伝票はすべて手書きで、専用の大きな倉庫もないので商品は空いた場所に積んでいた。
 
(41) 故障対策でブランド品を販売
通販を利用する人が心配するのは故障だった。お店で買った商品ならお店に相談にいけるが、通販ではどうすればいいか不安になる。一流ブランドなら故障しても安心という心理が働くので、販売商品はブランド品にする。実際に故障のクレームが発生したときは新品を送り返す。
 
(42) 「金利・手数料」はジャパネット負担
ラジオショッピングを始めたころから「金利・手数料ジャパネット負担」のサービスを実施する。当時の金利は今のように低くないので、会社にとって大きな負担になる。2010年、テレビの地デジ化とエコポイント制度の特需で大型テレビが売れに売れ、テレビ関連売上が約960億円を記録した時、金利負担料は50億円をこえた。
 
(43) 東京の放送局でラジオショッピング開始
東京の局でラジオショッピングができたのは「ラジオ日本」が最初で、本格的に東京で放送できるようになったのは1993年頃からだった。

《44歳・・・・46歳頃》

提供名を「ジャパネットたかた」に統一
 
(44) ラジオショッピングで売上増加
ラジオショッピング開始前となる1989年は売上2億7000万円だったが、1992年12月期に売上は14億5000万円まで増加する。
 
(45) 自前の広告代理店を設立
1992年、東京に自前の広告代理店「ルックトウウェンティワン企画」を設立する。その理由は、ラジオショッピングのスピードだった。生放送でも収録でも、事前に放送内容の考査を受けるが、代理店を通すと原稿の修正などに手間がかかる。ラジオ局とのやり取りを早くするには自前の代理店のほうが便利ということで設立する。
 
(46) 「ジャパネットたかた」で放送
1993年頃にラジオショッピングの全国放送が実現しそうになったので、提供名を「ジャパネットたかた」に統一する。 それまでは、四国や中国地方で放送するのに佐世保のカメラ店ではおかしいというので、通販四国、通販中国という名称を使っていた。
 
(47) ラジオショッピングは大成功
ラジオショッピングの開始は1990年、その4年後となる1994年の売上は43億1000万円、実に16倍の成長を記録する。
 
(48) テレビショッピングに強い関心
1994年テレビショッピングのテストを開始する。ラジオショッピングで年商43億円を超えたがラジオの聴取率は低い。テレビを見ている人が何十倍もいるはずで、テレビ市場が大きいと思う。さらに、ラジオショッピングは長くて5分なので、テレビの30分枠に魅力的を感じる。テレビ東京が深夜の時間帯に、アメリカから上陸したテレコンワールドという30分枠のテレビショッピングを始めると売上が100億円との話を聞く。

ここから先は

7,805字

¥ 200

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?