1981年:夏のお話その1
母が死んだのがその年の二月。226その日に亡くなった。
1981年。
その数ヶ月後、いきなり父が「お前、東京に旅行に行け」と言い出した。
本来1年しか持たないはずの母の命を、父は色々かけずり回って5年にまでは引き延ばしたが、その代償として、立ち上げから加わっていた貿易会社の役員の椅子を放り出すことになった。
が、まだ母の死によってその経済状態が破綻する直前だったのと、その後のことを考えたのか、父にどんな心境があったのかは不明だが、私は東京に行くことになった。
それまで夏休みといえば文明からはほど遠い、本島南部か北部で、4泊から1週間近くかけて、母方の親戚一同とキャンプという、テレビっ子でオタクの発芽が始まっていた私にとっては非常に苦痛な(とはいえ、3日目ぐらいからは楽しみ始めていたのだが)定期イベントがあったのだが、今回はさすがにそれは出来ないから、息子だけでも前から言っていた「東京に行きたい」という願いを叶えてくれたのだろうか、それともキャラクター玩具有害論(というものが当時あったのだ)を固く信じて小学校二年生でオモチャを「強制卒業」させた母に隠れて、それでも本の中にSF小説を紛れ込ませるようなことをしていた私に仏心が出たのかは判らない。
あるいは、母の新盆というしんどいものを見せないようにし、何か楽しい思いをさせてやりたいという親心だったのかも知れない(最近父に聞いて見たが、元から口べたな人なの上に30年近い昔のことなので『昔からお前(つまり私)との約束』以上の言葉は引き出せなかった)。
ともあれ、東京である。
東京というのはテレビの中にある光景であり、大好きなアニメと漫画を作って沖縄に送り込んでくる「夢の工場」であり「ドラマとアニメの舞台」であった。
一年遅れでガンダムを地元のテレビで見、その後遡るように同じ枠でザンボット、ダイターン、イデオンという並びで富野良幸(改名前)という人が作るとアニメは凄く面白い物らしい、ということを薄々感づき、大好きだったコン・バトラーVや闘将ダイモスの監督が長浜忠夫というらしいとか、キャプテンハーロックの監督はりん・たろうという不思議な名前の人ナノだと理解し始めていた(べつに早熟だったわけでも、頭が良かったわけでもない。そういうものを詰め込むしか楽しみが無かったのだ……前述したとおり、我が家は小学校の2年生で『キャラクター玩具有害論』に染まった両親のお声がかりでオモチャを全て棄てられてしまったからである)。
そこへ行く、というのが何となく実感がわかないまま、日程は組まれた。(その2へ続く)
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