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荻原規子 講演会「ファンタジーの魅力」 参加レポート

荻原規子先生 講演会『ファンタジーの魅力』
2010年12月23日(木)開催
高知県で行われた、荻原規子先生の講演会のもようをレポートします
会場:高知県立文学館1Fホール
<講演「ファンタジーの魅力」>
前回来高したのは12年前、今講演を企画した高知こどもの図書館設立以前のこと
これまでこのような講演には積極的に応じてこなかったが、勾玉三部作の文庫化にあたり、作品について語る時期が来たと感じていた
今回は執筆サイドがどんな気持ちを持っていたかをお話したい

●西の善き魔女 について

勾玉三部作以降に初めて単行本ではなくノベルスとして出版
児童書ではないかたちの作品にしたかった
実は「空色勾玉」よりも前に手をつけた
大学時代から作品として構想を練っていた
大学時代、レポート用紙に書き溜めていたものが原型
横書きのレポート用紙に10冊のボリューム
ファンタジーを書きたいと思って書いた最初の作品

※実際に中央公論から出版されたものとは違うかたち「空色勾玉」や「白鳥異伝」に通じる作品だった

「西の善き魔女」というタイトルについては、ゲド戦記の作者(ル・グウィン)が評論等であだ名されていたことがきっかけ
ルンペルシュツルツキンの「天文学者の弟子」、フィリエルの「天文学者の娘」、そして彼らが「荒れ地の塔に住んでいる」という設定は、書いている最中に最初のものと作品の様相が変わってしまった時にも、どうしても捨てられないものだった

西洋風の文化のものを書いてみたかった

自分がこれまでグリム童話など西洋の「おはなし」から獲得してきたものが、自分の文章にどう表れてくるのかを知りたかった
元々はファンタジーとして書いていなかったが、書き進めるうちにファンタジーになっていった
ルーンのような数学や天文学に強く傾倒する学者肌の少年は、日本の古代を舞台にした作品では書けない
天真爛漫なフィリエルは書きやすい少女だった…自分をあまり出さずに書ける少女だから

「これは王国のかぎ」「樹上のゆりかご」のひろみは作者に近いキャラクター
フィリエルとルーン、「白鳥異伝」の遠子と小倶那は共通点のあるキャラクター

書いている最中は自分でもどう展開するかわからない作品だった
はっきり完結していない物語
続きをいつか書くかも知れない
出版社からは「書いて下さい」と言われている

●RDG レッドデータガールについて
現在楽しんで書けている作品
「西の善き魔女」を9年続けたので、これが終わったらもう一度日本を舞台にした作品へ戻れるなと考えていた
古代日本へ戻らず、中世の世界に舞台を移したのが「風神秘抄」だった
中世でもぎりぎり引っかかるかどうか、という時代が舞台になったのは自分でも意外だった
「風神〜」を書き終えた後、熊野へ取材旅行をした(後付け取材のようなもの)
その際に出会ったのが熊野三山(熱心にお話されていたので、収穫は大きかったもよう)
車で山深い道を行くのは大変だった
玉置神社や天河神社を思いもかけず見かけた
熊野古道の奥にある神社、神さびた森にある神社の敷地に、神仏習合の名残である寺があった
修行者が宿泊できるようにされているのか、寺の欄干に布団が干してあった
住むには厳しいような神域を感じさせる場所に、布団が干してある奇妙な生活感

そんな山奥で育った女の子がいたら…と生まれたのが泉水子

実際生活するのは難しいだろうけど、家の中はオール電化で住みやすくしてしまえばいい

「風神〜」では日満を書いたが、熊野へ行くまでは修験道についてあまりピンときていなかった
通りいっぺんの事しか知らなかった
蔵王権現がたまたま開帳されていたのだけど、その時若い僧侶に聞いた話が気になった
それから修験道の本などを見かけると読むようになった
神仏習合は明治に廃止(廃仏毀釈)されたが、そんな中で時代の踏み台になったものがある
それらに大切なものも隠れているのではないか

今パワースポットが注目されているが、熊野や玉置神社で感じた自然に畏怖や敬意を感じる気持ちと似ていると思う
富士山は古くから霊山として崇められている
標高は似ていても、他の山とは違う何か
昔の人々はそこに神々しさを感じていたのではないか

風穴について「風神〜」ではあまり書けなかった 修験者のことを書きたい
今回は学園ものが書いてみたかった
どうせふつうの学園ものは自分には書けないだろう

泉水子は「絶滅危惧」の女の子
内気で自分を出すのが苦手
より自分に似ているキャラクター
泉水子のように、上手に現代にフィットできない内気な女の子が今までの作品にはいなかった

女の子のちょっとした気持ちのゆらぎ、細かいところを書いてゆけたら…

4巻の草稿は出来上がった しかし刊行ペースは以前と同じかも…

●空色勾玉について
出版の話が出た当時はまだ日本神話を扱った児童書の作品は珍しかった
古事記や日本書紀を今読む人はあまりいないだろうしかしその中にはいい「ものがたり」がたくさんあると伝えたい

自分は東京のニュータウンで核家族の子供として生まれたため、「地元」「ふるさと」からは縁遠かった
「伝統」を持っていないというコンプレックス
自分には伝えていくべき「伝統」がない意識が強く、神話の世界を描くことにためらいもあった
古事記や日本書紀を文学として読み身になじんでいるのに、他へ発信できる「伝統」のなさ
京都や奈良、遠野のような地域に生まれ育った人に対して自分は薄っぺらい

しかし日本の国土に生まれ、そこに生きていることで獲得しているものがあると思った

「空色勾玉」を書き上げることで確信したのは、古事記のように大昔からあるものは根っこから吸い上げるもので、体の中にこの国(土地)の物語が吸い上げられていること

ひたすらに西洋に憧れる自分と、それでもこの国の水がなじむ感覚
「ファンタジーが書きたい」という気持ちが強かった

そこに日本の風景、古代のみずらを結った人々、勾玉や太刀を思い浮かべた時、神話がついてきた
それが自分自身の発見になった

「神話とはどういうものなのか」ということを考え続けている
古くから人間が持っているもの、太古の時代から吸い上げてきたものがある

それがファンタジーにつながるのではないか
時代に左右されない、人間の本質に向かう何か

おとぎ話や神話には、どの土地にあっても同じパターンで出てくるものがある
それを新たな形で物語につむぎ上げる事が出来る人がファンタジー作家だと思う

数年前の古代文学会で、口語訳古事記などを書いた三浦教授は出雲神話の重要性を説いていた
古事記・日本書紀は天皇のために作られたもの
政治的な歪曲があるのではないか

ならばそれ以前の神話は?

そこには歪められないくらいに古い話が隠れている大和朝廷の介入・支配によっても消せなかったものがあるはず
神事に芸能があったから、それらがなくならずにお話として残っているのだと思う

勾玉三部作は自分が読みたいと思ったものにひかれてえがいたもの

「借りたもの」で書こうと思わなくても、出てくるものに引っ張られて生まれた、日本の世界だからこそえがけた世界
自分を見つめなおすことがファンタジーを書くこと

気づかなかった自分に気づくことがファンタジーの魅力だと思う


質疑応答(Q&A)

荻原先生と読者の一問一答の形で行われた質問コーナー。

Q.どうして小説家になろうと思ったのですか?A.最初は作家になろうとは思っていなかった。
実際に3年前までは勤めも持っていた。
「ファンタジー論」を書こうとして書けなかったので、自分で小説を書くしかないと思った。

Q.小説を書く上で意識している、気をつけていることは?
A.自分が読みたいと思ったものを書く。
特に10代半ばの自分が読みたかったものを書くようにしている。

Q.どんな本が好きですか?
A.10代〜20代の頃は物語や小説がメインだった。今は研究書のようなものを多く読むように。
ジャンルのど真ん中よりも、少しはじっこのものが好き。例えるなら知識をまたぐようなもの。

Q.ファンタジーのキャラクターを書くときに気をつけていることは?
A.ファンタジーは普遍的なものをベースに書いていくものなので、似たキャラクターになりがち。

それをいかに「借りもの」ではなく「自分のもの」で書けるか。

Q.キャラクターの名前をつける時は悩みますか?名付けに苦労したキャラクターは?
A.すんなり名前が決まったキャラクターはいない。自分の場合、キャラクターの名前がつかめないと人物が立ち上がって来ない。
キャラクターの名前は作中(地の文・会話文で)かなり連呼することになるので、何度も書いて嫌にならないようには気をつけている(笑)。
名前は大切。毎回わが子につけるような気持ちで考えている。
作品のタイトルも同じ、タイトルは先に出来る。
一番命名に苦労したのは「稚羽矢」だった。
脇役の名前は割と簡単につけることがある。
しかし思い入れが薄いぶん、思わぬ横やり(活躍・行動)をする事があるので、そういう時はいいかげんにつけて悪かったなあ…(笑)と思うことも。

Q.作品の情景描写が素晴らしい(特に空色勾玉)ですが、どうやって書いているのですか?
A.空色勾玉を書いたころは、むしろ情景描写が下手だと思っていたので、特に丁寧に書いた。
BGMや雰囲気をつくるためのリズム、見えてくるものをイメージして書く。音楽で言うなら、交響曲に近い作り方をしているかも知れない。

Q.作品を書く上での原動力を教えて下さい。特に「書きたい」と思う時は?
A.たとえば旅行中なんかは、特にそれをそのまま書きたいという気持ちにはならない。旅行から帰ってしばらくして、それを忘れてしまうくらい時間が経ってから、自分の中に残っているものに気がつく。
その事を考えていない時に浮かんでくる。
普段の生活ならお風呂の時なんか。
ひとつではだめで、4〜5個がつながると物語になる。

Q.「ファンタジーを読みたいけれどその世界に入り込めない」という子がいる。作家としての視点から、ファンタジーに触れるきっかけのようなものはありますか?
A.彼らはファンタジーの素養のあるゲームはやるので、読みたくないと思う子には無理に読ませなくてもよいのでは。
ファンタジーは全員が全員読めるものではなく、ある種のタイプが必要だと思う。
読んでくれる人に読んで欲しい。
漫画でも何でも、自分が面白いと思えるものを探して読めればそれでいいと思う。

Q.現在はファンタジー作品が飽和しているように思えます。この状況をどう思いますか?
A.日本におけるファンタジー作品の現れ方はゲームがはじまり。
ゲームのファンタジーは本来(のファンタジーとは)別のものだけれど、RPGの世界がファンタジーと思われるのは仕方のないことかも。
飽和しているからこそ、ステレオタイプのつまらなさが強調される。
それはどこの分野も同じだけれど、たくさんあるからこそいいものも生まれてくる。

そういう中で、いいものは必ず残っていくはず。

Q.作品内で自然と人との関わりについてえがいていることが多いが、そのことについては?
A.環境保護とかエコとか、主義的なものではなく草木と話せるような素朴な気持ちで。
「童心に帰る」という言い方は好きではなくて、子供だからではなく人が普遍的に持っているもの。
(日本は)キリスト教のように「人だけが神の似姿である」と言われる文化ではないからこそ考えられる事があると思う。

Q.(空色勾玉の)月代王…月読命の神話はほとんど残っていませんが、先生の完全な創作なのかもしくは何か参考文献があるのでしょうか?
A.参考文献はない。
月読命に関する記述はほとんどないので、どういう神様なのかまったくわからない。
月代王の人物像は照日王の対となる王としてつくられたもの。

Q.著作はほとんどが少女の視点でえがかれているが、「風神秘抄」が少年視点なのはなぜですか?A.女の子の視点が多かったので、男の子の視点も書いてみたいと思った。
自分が女性だから女の子の視点が書きやすいということはないと思う。
人間の中には(男女)どちらの部分もある、だからその都度出していけばいい。
「薄紅天女」では阿高(少年)の視点で書いたが、当初の予定とは違いこの視点で全編通すことが出来なかったので、「風神〜」は最後まで少年視点でやり遂げようと思った。

Q.先生の学生時代はどんな女の子でしたか?
A.割と上田ひろみのような子。
ひろみのすべてが自分ではないけれど、自分を入れたキャラクターが上田ひろみ。
「樹上のゆりかご」も行事などに関しては実話。もちろん、事件は創作ですが(笑)。
「男子校のような学校に入ってしまった」とか、生徒会の独特な雰囲気はそのまま書いた。
中学の頃は学年一位を取るような勉強家だったが、高校に入学すると勉強はしなくなった。よく本を読む学生だったと思う。

Q.福武版と徳間版の「白鳥異伝」には記述の相違点が多く(特に遠子の「〜だわ」「〜わよ」に対する「わ」抜き等)、それぞれの読者で遠子の印象が違っていた。改版にあたりそれは意識されましたか?A.出版社を変える時に直したことは覚えているが、どこをどう直したかまでは覚えていない。
ただ、内容を変えようとまでは思っていなかった。「わ」抜きについては、ゲラ校正の際に抜いたのではないか。
その理由については、徳間版を出す頃に「〜わよ」「〜だわ」という遠子の言い回しが昔風になっていて、読み手からは乖離した表現になっていたからだろう。
「〜わよ」はお話を読む人の、かぎかっこの中だけで男女を表現するお約束だった。
もうこういう言い回しは使えないと思うし、使っていない。(読み手の印象が変わっても)私の中の遠子は一人です。

Q.自分は脚本を書いているが、物語の中でキャラクターが勝手に動くことが多い。先生にもそういうことはありますか?
A.キャラクターが自分の思っている以上の事をやってくれるようでないと、(物語として)成功したとは言えない。
むしろ、化けるのは脇役の方が多いと思う。
自分の作品で言えば、一番化けた脇役は「白鳥異伝」の菅流だった。彼が物語の最後まで付き合ってくれるとは思わなかった。キャラクターが勝手に動く、と言っても、無意識下では本当は解っていること。そういう時は、意識にのぼってこないけれど大事なことを語っていることがあるので、無意識の表れに注意しておくのは大切だと思う。

ただ、あまり勝手に喋り過ぎるようなら一から書き直した方がいいかも知れない(笑)。

●分科会 空色勾玉
分科会は「西の善き魔女」「RDGレッドデータガール」「空色勾玉」の三つに分かれて行われました。

今回、私は40名が参加した「空色勾玉」の分科会にお邪魔しました。

【作品内の情景描写について】
年配の方の意見…自分が昔感じていた自然への畏れや風景を色鮮やかに思い浮かべられる
若い方の意見…見たことのない筈の自然を想像する 「知らないふるさと」を見ているような気持ち

「原風景」は誰にでもあるもの それぞれ思い浮かべる風景は違えど、「いにしえの日本の風景」が思い浮かぶのは、そこに日本人としての幸福があるのではないか

先生の意見…原風景が何処から来ているのか、自分は古典文学を読んで受け取ったものがある 日本特有の四季折々に関する細かな感じ方 千年以上前の女性が書いた情景が文字だけとなっても今なお残っているということ それが脈々と受け継がれてきたことを大切にしたい

【作品の出版に至るまで】
先生…古典が好きな自分と西洋が好きな自分は最初、中々ドッキングしなかった しかしいつまでも「借りもの」で書き続けることに限界も感じていた そこでお話を頂いたので書こうと思った

徳間編集・上村さん…空色勾玉は自分が翻訳出版畑から児童書畑に移ってごく初期の日本人作品 書いてみないかと声をかけて先生が書いたのが始まり 当時240P超の児童向け作品は例がなかったが、出してみようということになった

【各章立ての歌について】
みんなが知っている歌にしたかった
当時は古代日本を舞台にした児童文学はあまりなかったので、歌の選定はかなり考えた

【出版される際に本編から削った部分はあるのか、という問いに対して】
先生…物語が進むにつれ情景描写に生活感がなくなっていくのは戦が始まるため仕方なかった それでもひたすら描写し続けたのがトールキンだけど、自分にはむずかしいこと

登場人物【狭也について】

先生…作中でも触れたが、彼女の名前は自然の音「さやさや」から 万葉集の歌から取った 稚羽矢という「剣」の鞘にも当てはまるなと思ったのは後からだった

中学生の意見…狭也を自分と重ねることはないけれど、「なりたい女の子」に近い気がする 近くはあるけれど、自分と同じではない 自分にはあれほどの行動力はないかも

【稚羽矢について】
(この直前に先生が次の分科会に行かれたのでお話は伺っていません)
「空色勾玉」は稚羽矢という不完全な神の子がひとりの人間になる物語だと思う

日本の神は外国の唯一神のように万能(全知全能)ではないと感じる…照日と月代が二人で一対のように

【分科会で総合した意見】
子供のころに読んだ時と年齢を重ねてからでは感想が変わる、そこにこの作品の魅力を感じる

いつまでも大切に読んでいきたい物語

※ここからは個人的な感想です※
荻原先生が東京の地で生まれた事にコンプレックスを持っていた、という事は、自分の中でものすごく合点がいった気がしました。
生まれに「伝統」のない自分が神代の物語を紡ぐことに躊躇していた…
空色勾玉を書かれた時期は未だ敗戦後の国教(神道)憎し、という頭が残っていたんですね。
国産のファンタジーもほとんどなかった訳ですし。そんな中で、先生が「それでも自分の中にはこの国の物語が吸い上げられている筈」と思えたことは、幸福以外の何物でもないと私は思います。
こうして作品に出会えた訳ですから。
先生ご自身もおっしゃっていましたが、口で語るより筆で語る方が先生にとっては雄弁なのかなと思います。もちろん肯定的な意味で。
「借りもの」で書きたくない、「自分のもの」で書きたいんだ、というところは実に作家さんらしいなと感じるお話でした。
それから、先生は「RDG」を「あーるでーじー」と発音するのか!という新発見もありました。

キャラクターの名前のイントネーションはおおよそ想像通り。これで脳内は安心です(笑)。
ファン同士のお話も出来、こんな会がまたあればいいなと思いながら帰路についたものでした。

この講演会ですが、実際に講演としてお話されていたのは一時間ほどでした。

あとは質疑応答と分科会の構成です。

当日は必死にメモを取って、どんどんあやふやになっていく記憶を頼りになんとか文章に起こしてみましたが…皆さまに少しでも臨場感が伝われば幸いです。
ここまで読んで頂きありがとうございました。



















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