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「河東碧梧桐-表現の永続革命」について

2019年9月に刊行された、石川九楊氏による河東碧梧桐の評伝「河東碧梧桐 ー表現の永続革命」の文庫版が12月6日に文春学藝ライブラリーより発売されました。
この機会に新たに手に取った方も多そうなので、改めて、著者の明らかな勘違いをひとつ、ここで指摘させていただこうと思います。

※この記事は2019年10月にfusetterに記載しTwitter上で公開した内容を元に適宜加筆・修正したものです。


著者の大きな勘違いーー「庭梅」は梅ではない


十二章「ルビ付俳句の意義」において、九楊氏は次の句を取り上げています。

 どうやら築かれた八重桜ハナ躑躅ハナ庭梅ハナをさはるに

この句には3つの「ハナ」が詠まれていますが、そのうち最後の「庭梅」について、著者は「うめ」とルビを振り、句についての説明でも「庭梅」を「梅」として扱っています。

 比呂志邸の庭が出来上がった。訪れた碧梧桐が興味津津、植栽に手を触れながら見回っている。
 八重桜を植えたか、躑躅も梅もあるな――(中略)山桜系や染井吉野ではなく八重の里桜、牡丹ではなく躑躅、桃ではなく梅の木を植えたかという感想を詠みこんでいることになる。
 (中略)
 木の枝や葉に手を触れつつ、「八重桜ハナを」のところでは、春に八重桜が重そうな花をつけた姿を、そして初夏には枝や葉を覆い隠すほどに、紅、紅紫、朱色またはまっ白の花の海が出来た躑躅の姿を、そして早春に、一輪一輪春を呼ぶ梅の花の咲き来る姿を思い描きつつ、庭を散策する碧梧桐の姿が描かれている。
 (中略)
「さくらもつつじもうめも」植えてある。これに「ハナをハナハナを」とルビをふることによってこの現実の姿の上に、満開期の庭の風景が二重露光的に浮かび上がる幻想的な句が生まれているのである。

石川九楊「河東碧梧桐 ―表現の永続革命」より

しかし、残念ながら著者は大きな勘違いをしています。
庭梅は【庭梅(ニワウメ)】という植物であって【梅(ウメ)】の別称ではありません。梅も庭梅もバラ科の花ではありますが、方やサクラ属、方やスモモ属というように属の違う別種の植物であり「庭梅」=「庭に植えられた梅」のことではないのです。

そしてここからが句の解釈において重要なのですけれども。

品種によっては2月のまだ寒い頃から咲き始める梅と違って、庭梅の花期は4月(現代の関東圏基準)です。そう、春真っ盛りの4月が旬なのです。そして、八重桜が咲くのも4月。躑躅が咲き始めるのも4月。
つまり、句に詠まれている3つの「ハナ」はどれも同じ時季に咲く花で、異なる季節に別々に咲く花ではないのです。

この事から考えるに、おそらくこの句が詠まれたのは春ではないかと思われます。少なくとも、碧梧桐が比呂志邸を訪れたのは八重桜も躑躅も庭梅も咲く季節だったのではないかと。
そして、庭を見た碧梧桐が「どうやら築かれた八重桜を躑躅庭梅をさはるに」と詠み、「ハナ」「ハナ」「ハナ」というルビをふったのも、それらの花が目の前で咲き誇る様子を表したかったのではないかと。

この句が詠まれた時季ーーというよりも碧梧桐が比呂志邸を訪れた時期が具体的にいつなのかは残念ながら知りませんし、実際には私の推測や解釈とは違うのかもしれません。でも、著者が言うような二重露光的風景を狙ったと考えるよりも、目の前に咲き誇る花々を描き出すように詠んだと考えるほうが自然なのではないかと思うのです。正岡子規が提唱し、碧梧桐も受け継いだ「写生」の観点からしても。


文章にしろ詩にしろ俳句や短歌にしろ、書かれている内容についてその知識があるかどうかで理解度は変わるものですが、俳句という極端に短い表現においては知識の有無が大きく影響するのだということを、この本を読んで実感したのでした。


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