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セーラームーンになりたかった

物心ついた(私の場合、だいたい3歳ごろから、はっきりとした記憶というか、自我がある)頃、私の人生の最初から意識の中に居た存在が、家族のほかにひとつだけある。

セーラームーンだ。

1990年前後生まれの人にとってはお馴染みの、「セーラームーンになりたい」という夢。

私もいつも短冊に書いていた。

もちろん、その夢が叶うはずはない。
もちろん、キャラクターショーに出るとか、声優になるとかそういうことならまだ物理的には可能なのかもしれないけれど、セーラームーンという存在は、架空のものだ。そのことはきちんと理解していた。

でも、「セーラームーンになりたい」という言葉でしか表現できない言語能力はやはり子ども特有の幼稚さで、いつも自分の本当に言いたいことがそれではない気がしていたのを覚えている。

ある日、セーラームーンのキャラクターショーを観に行った。
初めて生の(存在としては一番リアルに近い)セーラームーンに会えるその日まで、友だちと一緒に指折り数えた。
当日の朝の高揚感は、今でもはっきりと覚えている。

しかし、それ以上に覚えているのが、公演が終わった後の虚しさだ。
「終わっちゃった」という寂しさだけではない、言いようのない虚無が襲った。
虚無という言葉は知らなかったので、その時も私は、「終わって寂しい」としか言えていなかった。

家族からは、「また会えるよ」となぐさめてもらったが、「そういう問題ではない」と心のどこかにずっと引っかかりがあった。

セーラームーンの中でも、私はマーキュリーが好きだった。可愛くて、爽やかで、知的な亜美ちゃんが大好きだった。

「セーラームーンになりたい」は、「セーラームーン『のように』なりたい」だった。

「セーラームーン『のように特別な存在に』なりたい」だった。

セーラームーンは、まだこの世界のことをほとんど知らなかった当時の私にとって、「唯一無二の、特別な存在」の権化だったんだと思う。

ずっと、亜美ちゃんのような「なんでもできて周りから一目置かれ、選ばれし者の一員としての使命がある、誰もなれないような特別な存在」になりたかった。

あのショーの日、ぬいぐるみに人が入って演じてはあるものの、実体としてそれを初めて目にしたことで、
特別な存在と、その他大勢の、「観衆の子どもその1」である自分との違いを目の当たりにして、言いようのない虚しさを感じたんだと思う。

もう幼稚園も年長だったこともあるだろうが、私はその日を境に、「セーラームーンになりたい」を言わなくなった。

しかし、小学校に上がっても、「あの強い憧れ」は私の中に残り続けた。
むしろ、単純な憧れではなく、崇高なる自分の理想。知らず知らずのうちに、そういうものに変わっていた気がする。

しかし、私はHSPという気質をもっている。
それをうまくコントロールできず、小学校生活はうまくいかないことばかりだった。
小学校の教室で力を持つのは、可愛くて派手で、交友関係も広く、ちょっと気の強い女の子たち。

でも、彼女たちに、目指したいと思う「特別」は感じなかったし、そもそもそういった気質とは無縁の私は、とりあえず勉強をがんばることにした。
でも、小学校のテストで100点を取るのは、そんなに難しいことではないし、すごく珍しいわけでもない。
だから、高学年になるにつれ、それなりに周りから信頼してもらえるようにはなっていったが、私の目指す「特別」とは、程遠かった。

いつも、フラストレーションを感じていたように思う。

中学校に上がり、私はクラスで生活委員会に入った。委員会は誰でも何かに所属するものなので、別に特別ではない。クラスのリーダーである代表委員に立候補する勇気も自信もなかった私は、流れでここに所属することになったまでだった。

第一回の委員会で、委員長と副委員長の紹介があった。

副委員長の先輩が話し始めたとき、私はもう10年近く前になるあのショーの日を思い出していた。

サトミ先輩。それが副委員長の名前だった。
名前には、「聡」という字が使われていた。
名前の通り、聡明さが顔立ちから伝わってくる人で、委員長よりもむしろ副委員長のサトミ先輩が全てを担っているかのように見えた。

委員長は人柄のいい感じでおっとりしていたが、サトミ先輩はテキパキと動き、実質、彼女が委員会を回していたと思う。

すごくかっこよくて、私の心の中でだけ形を持っていて、決して実現されることのなかった「特別」が、そこにあった。

「特別」な存在である先輩。
ただの委員の一人でしかない自分。
自分はちっぽけで、人から注目されるような存在ではないことを認識した。

しかし、あのショーの日と違って、自分はもう何もできない幼稚園児ではないし、勉強だけはしっかりしてきたので、もう何らかの手立てがあるかもしれないとも思った。

間もなく、中間テストがあり、私はそれをはっきりした手応えとして感じることとなった。

5教科のうち、私は4教科で100点をとった。あと一つも、97点。合計497/500点だ。
小学校と違い、中学校のテストで100点は、しかも複数枚とるのは、そんなに易しいことではない。

あっという間に学年中に噂が広まり、学年の有名人になってしまった。
全然よくしてもらった記憶のない小6の頃の担任の先生からまで、「聞いたよ!すごくがんばってるらしいね!」と連絡がきた。

初めてだった。初めて、永遠に埋まることがないかもしれないと思った「ぽっかり」が、スーッと満たされていくのを感じた。

もちろん、それからも私は、この「ずっと憧れていた存在」の座を学年の誰にも譲るつもりはないという覚悟で3年間勉強にあたり、学区トップの高校に推薦で合格、有終の美を飾ることができた。

中学に、何の未練もなかった。

進学先の高校は、各地域から優秀な生徒だけが集まってくる場所であり、中学のようにはうまくはいかない。
しかし、私はここでも、意地でも「特別」を守りたかった。しかし、新入生テストで大失敗してしまい、学年順位は2桁だった。進学しようかなと考えていた地元の旧帝大なら、十分合格が狙える順位だ。しかし、私はまた、あの「ぽっかり」が顔を覗かせるのを感じた。堕ちる。この穴に、どのまでも堕ちていってしまう。これはブラックホールだ。私は空恐ろしさを感じた。

その日から、勉強の仕方を見直し、「クラス1位」「学年順位5位以内」を目標にかかげた。

正直、苦しくて苦しくて、たまらなかった。
勉強自体は嫌いではないのだが、
自分の現状でも進路実現は十分に可能なのに、崇高な理想を手に入れないと満足できない心がとにかく苦しかった。

でも、目標を達成でき、あっという間に成績優秀者としてまた学年の有名人になれた(高校では、はっきりと順位表が各クラスに掲示される)時には、自分の器がスーッと満たされて、つらかったことも全部吹き飛んだ。


次のテストでは、また同じように苦しんで…という無限ループを繰り返す中で、何度も泣いたけれど、自分の理想の存在であり続けなければ、学校に行けないとさえ思った。

何せHSPをもっているので疲れやすく、早朝から夕方遅くまで授業のある生活自体、精神的なバランスにも気を遣いながらやっとだったので、在学中は何度も心身を壊しかけた。
でも、つらいときはあの日のブラックホールを思い出して、ただ理想だけを見据えて日々を送った。青春なんてほとんど感じなくて、私にとって高校は牢獄だった。

私と肩を並べていた同級生たちはもちろん、もっと下の成績の子たちも、ごっそり東大・京大に合格していったが、私は予定通り、地元の旧帝大に進学した。
周りは「もったいない」と言ってくれたが、本当に行きたいのがその大学だったし、目標は「学年の中で特別になること」だったので、私は本当に満足だった。

こうして、勉強のおかげで、私は私なりに、私の目指す「特別」になれた。つらかったけれど、私は私の学生生活に満足はしているんだと思う。

大学生活は、これまで満たされていなかった「遊び」の器を満たす時期だったと思う。
サークル活動(音楽系のサークルに所属していた)に勤しんだり、高校で派手な子たちがやっていたようにジャニーズのアイドルに騒いだり、ごく当たり前の「楽しみ」をようやく知れた気がした。

毎日のようにひとり暮らしの家に友だちを呼び、鍋会や飲み会をして楽しかった。勉強をがんばってきて、行きたい大学に行けて本当によかったと思った。

そして、それ以上に、コンサートに行くのがものすごく楽しかった。当日の朝の高揚感を味わうたび、あのショーの朝を思い出した。あの時の気持ちはずっと色鮮やかに残っており、それを何度もなぞっては追体験しているようだった。

でも、それと同時に、毎回帰り道には、あの時の虚無が同時に襲うのだった。

また翌日は、普通に友人と楽しく過ごすのだけれど、あのぽっかりの気配は消えない。ふとした拍子に亡霊のように現れては、「他の人と同じようにただ日々を楽しんで、それだけで本当に満足?」と囁いてくる。

行きたかった大学で、いわゆる青春を味わえているにもかかわらず、なぜか日々、私の心は満たされるどころか、どんどん細っていくように感じた。

亡霊の声など聞こえないふりをして楽しんでいても、ひとり暮らしの部屋に帰ってくると、「これで1日終わるの?」とまた耳元に現れるのだった。

結局その声(今から考えれば、自分の内なる声だった)を無視したまま、表向きは存分に楽しんで学生時代を終えた。

責任ある、やりがいも感じられる仕事に就くことができ、日々満たされていたので、社会人になってからは、あの声はもうほとんど聞こえなくなっていった。

しかし、数年前から、休みの日にくつろいでいると、ときおり声が聞こえる気がし始めた。仕事には満足している、それなのに、十分休む資格はあるはずなのに。

そんなとき、「満月珈琲店の星詠み」という本に出会った。


作品の中で、それぞれの悩みを抱えるキャラクターたちは、「満月珈琲店」に出会い、星詠みによって自分の内面や本当の願いと向き合っていく。

前を向いて自分の人生を歩んでゆく一人ひとりのキャラクターたちの姿を見ていたら、私自身もホロスコープに興味をもった。

特に、自分の本当の願いが隠されていると言われる「月星座」が気になって仕方なく、調べてみた。

すると、太陽星座が天秤座であるのに対し、私の月星座は山羊座。そこに書かれていた文面は、まさに私の「内なる声」そのものだった。

そして私の場合、太陽星座と月星座が異なる方向のパワーを持っているとのこと。

いつも周りとの調和を重んじ、楽しむことが大好きな自分がいるのに、同時に「これではないけない」「特別な何者かになって絶対的なポジションにいる自分でなければ」という、自分の内部からわき上がるような、厳しくて強い意志の存在も感じる。

こういった矛盾に、これまで何度も苦しんできたものだった。

苦しかったのは、「なぜ、満たされているのにこんな気持ちが出てきてしまうのだろう」「なぜ、こんなにこだわりが強いのだろう」という、「なぜ」の存在だった。

だから、こうして知ることで、「あぁ、当然の願いだったんだ」と思えてスーッと葛藤が薄れていくのを感じた。

そして、私ははじめて、内なる声の存在を在るべきものだと認め、真剣に耳を傾けることができた。

そこで、あることがわかった。

私はこれまで堅実な道を選び、幼少期から興味のあった音楽への道を簡単に諦めていた。

芸術が堅実ではないという差別をするつもりはないけれど、どうしても生活していくには不安定さが拭えないと思ったし、当時は子どもであった上に、今ほど時代も進んでいなかったので、趣味で終わるか仕事にするか一択、みたいなところがあったのだ。

しかし、これだけ選択肢の増えた時代。

今好きでやっている仕事を続けながら、もう一度音楽に向き合ってみるのはどうかと思えた。

そして、当時は絶対に無理だろうと思っていた作曲をするのが日課になった。

常に、自分と向き合いチャレンジをし、認めてもらえるような活躍をしたい。

天秤座の良さである「周りとの調和」を活かしながらも、本当にやりたいことに対しては、妥協を許さない。

ひとつ、自分にとって在るべき人生の指針が見つかったような気がする。

ちなみに母も弟も月星座が山羊座で、ふたりとは昔からそういう面で通ずるものを感じていたので、当たるなぁと思って驚いたりもした。

なかなか外に出て行くのが難しい日々が続く。

でも、これまでたくさん目をつぶってきてしまった分、私の中の山羊座に存分に活躍してもらって、音楽の勉強と楽曲の制作に励んでいきたい。


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