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Vol.10 「ケ」(日常)と習慣。ルールや流れ、UXを考えることの重要性

カタチのないもの、見えないものの存在感、その強さについて、ここで考えを展開しておく。見えるものと見えないものとの関係、それを設計する、想いを巡らせることの重要性についても、ここで個人的な見解多めで述べておこう。

ハレ(非日常)< ケ(日常)。意図的な行動 < 非意図的な行動

「考えて(特別な)何かをやる」、「頑張って何かやる」は、そんなに多くない

ヒトという動物として、都会や社会で日々を送る人間として、面倒臭がりな「脳」を持つ我々は、何かをやるたび、あるいは一挙手一投足ごとに、一々細かく考えていない。

複雑な機能を持つ人体というコロニー、その中で営まれている各細胞の取り組みについて、具体的に何がなされていて、どういう状態になっているか、詳細を事細かに把握している人は極少数だろう。五感を通して入ってくる情報の処理だったり、地球環境の中で二本足で立つ、あるいは歩くなど。全ての情報や動作について、生のデータ、生の認識を必死に処理して自分の身体を動かしている人も、恐らく少数だろう。

「立つ」や「歩く」を構成している細かな動作を統合し、「立つ」や「歩く」、あるいは「掴む」や「投げる」といった動きを、頑張らなくてもできるように、半分ぐらい無意識でもやれるように学び、身についているという人の方が多いはず。もう少し複雑な動き、日々を送る上でやっている習慣的な動きの場合も同様に、その都度「何をやるか」をイチから、あるいはゼロから考えるケースというのはあまりないでしょう。

朝起きたらどうするか、朝食の準備はどうするか、着替えのタイミングはどうするか。どうやって通勤するか、出社したらどうするか。あるいは、休みの日はどうするか、プライベートな時間はどう過ごすか。ハウスキーピング的な日々の買い物はどうするか、など。わざわざ頭を使って考える場合もあるだろうし、いつもの通りに流す、あるいはすでに確立されている習慣的な流れに任せてしまえば、無理に考えなくても日常生活を保てるようにされているのではないでしょうか。

民俗学者、柳田國男の見出した用語として「ハレとケ」。『ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している』(「Wikipedia ハレとケ」https://ja.wikipedia.org/wiki/ハレとケ より引用)。言い換えれば、日々の生活、無理して考えなくても送れる日々が「ケ」、そうではない特別な日や時間、多少の頑張り、意識的な取り組みが必要とされるのが、非日常の「ハレ」。存在感や質としては「ハレ」の方があったとしても、基本的には存在感の薄い「ケ」の方がボリュームとしては大きくなる。

見えるものと見えないものの関係性、書かれてあるものと書かれていないものの関係も、基本的には見栄えのしないものの方が多くなる、あるいは多い方を背景として、「ケ」的なものとして処理するだろう。空気が透明に見えているのも、無害な空気に匂いがしないのも、水が透明に見えるのも、強い味がしないのも、それを「特別なもの」として処理してしまうと脳に負担がかかりすぎてしまうため、人の五感はそれらをありふれたものとして処理できるように(無視してもいいように)、調整してくれている。

つまり、ボリュームとしては圧倒的に見えにくいもの、認知しにくいもの、意識的にやらない(=習慣的にやってしまう)こと、意図的に考えようと思わないこと、頑張って選ぼうとしないもの。そういった「ケ」的なものの方が多いということになる。(そうでないと、目を向けて欲しい特別なもの、注意すべき異常なもの、非日常の「ハレ」が「ハレ」にならない)

それで、何を言いたいのか。人は、何かをする時に頑張って考える、意識的に考えて新しい行動をとるよりも、いつもの習慣通りにお決まりの行動を選ぶ、前後の動きに影響を受けて流される、「ケ」のサイクルの中で流れで行動する方が、多少なりとも多くなる、ということ。

何かをする時に、少しでも考えさせてしまう。あるいは相手に動きや考えを変えるための努力、頑張りや無理を要求する。この時点で、なんらかの「失敗」、もしくは「減点」を埋め込んでしまっている。そういう風に考えることもできる。

もし、自分の商品なりサービスが「ハレ」寄りのものであれば、この「頑張り」は必ずしもマイナスに働くとは限らないが、「ハレ」の場合は、そもそも勝負になる機会が少なく、相手の能動的な動き、予測しきれない思考に追従しなくてはならないので、読み合いや対応の難しさに対して、割に合うかどうかという別の問題が立ち上がってくる。「ケ」寄りの場合は「頑張り」は間違いなくマイナスなので、そこを避けるための「デザイン」や「UX」、ルールの刷り込み、習慣というのが大切になってくる。

一度染み付いた習慣や根付いたルールは、簡単に変わらない

UIやUXもマーケティングも。ユーザーの流れに合わせてハメ込む

「こうやってくれたらいいのにな」を、ユーザーに期待するのはよろしくない。ユーザーに特別な何かを意識させることなく、元々の習慣や流れに、あたかも前からそこにあったかのような顔をしてハマり込むように、カタチやコトをデザインする。それが、本来のUIやUXデザイン。ユーザー体験の、体験後だったり、一連のカスタマージャーニーを考える、組み立てるコト、あるいはコンテンツを用意すること、サービスの質をただあげる、保つことがUXデザインなんだと思っていたら、恐らく間違い。

「ハレ」寄りの場合は、この限りではないが、「ケ」寄りのもの、例えば家電や日々の生活に寄り添うサービスの数々の場合は、こういうことを考えて、マーケティングなりPRなり、サービス設計なりを考えていった方がいいでしょう。習慣化されるか否か、定番にしてくれるユーザーを多数確保できるか否かが、リピーターを再投入してLTVやユーザー数を複利効果的に積み上げていけるかは、外してはいけない勝負だろう。

習慣もルールも、変えるのは大変だけれども、一度確立されてしまえば、そうそう簡単には変わらない。無意識のボリューム、習慣でやる行為のボリューム、「ケ」のボリュームが多いからだけれども、だからこそ、そこに上手く入り込めるように工夫する、デザインすることを常に考えておきたい。

習慣もルールも。あるいは一連のコンテキスト、流れも。目に見えない、あるいは見えにくいのに、強烈な力、存在感を持っている。それをいかに促すか、いかに誘導するかという工夫、デザインがどれだけ重要なのか。少しは伝わったんじゃないだろうか。

“我々が建物の形を決める。然る後に建物が我々を形作る”

19世紀のイギリス元首相、ウィンストン・チャーチルの名言より

『ネット階級社会:GAFAが牛耳る新世界のルール』(アンドリュー・キーン著 早川書房)に紹介されている一節。「道具を作ると、その道具に逆規定される」という意味らしいが、これぞまさにUXデザインの肝であり、社会秩序や経済ルール構築の肝。

習慣やルール、流れといった見えないものを、どんな形の入れ物におさめるかを考える。どんなルール、法律を守らせ、どんなコンテキストで社会や経済を成り立たせていくか。人の習慣も、産業や都市の勃興も、最初に作った「建物の形」、見えないものがおさまる器の設計、UXデザインで決まってくる。

そうしてつけられた「型」は、器を取り払っても、そこにあった器に沿って流れるようになる。最初にどんな形が作られたのか、今、自分たちはどんな形の建物によって動かされているのか。それらを立ち止まって考えようにも、日々を過ごすうちに流されていく。

いきなり話を飛躍させてしまったような気もするが、カタチがないものの強さ、その「カタチがないもの」にカタチを与えるデザイン、考え方の重要性というか、その効力。それらがいかに大きなもので、いかに抗いがたいものなのか。ほんの少しでもお伝えすることができたなら、幸いである。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。 ただ、まだまだ面白い作品、役に立つ記事を作る力、経験や取材が足りません。もっといい作品をお届けするためにも、サポートいただけますと助かります。 これからも、よろしくお願いいたします。