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ホル子のブラジャー紹介(7)深い青の大人下着

 なぜ人は大人になると鱗翅目のような下着をつけるのだ。
 伝わりますかね、豪奢なレースや刺繍で彩られた貫禄ある下着、だいたい派手な色でギラギラしてるやつ。あれを「大人下着」と呼んでいる。大人下着は夜の蛾のよう。大人下着は鱗粉を散らす。深い濃青に惹かれて買ったこのブラジャーは、30歳になる頃に大人下着屋で買った大人ブラである。カップを覆うレースの光沢とその縁を飾る花弁の繊細さに、「大昆虫展」ではじめて熱帯のモルフォ蝶を見たときのように目を奪われた。少し高価であったけれど、
「もうすぐ30歳になるんだから記念に大人下着のひとつも買うとしよう!」
 と購入したのだった。
 
 30歳という節目は、なんかいろいろややこしい。
 特に女性の30歳というのは、20歳に較べ明確にネガティブな意味をもたされている。私の30歳当時からだいぶ年齢観も変わったと感じるので近年はそうでもないかもしれないが、当時は「30歳」は「もうおまえ若い女やないんやぞ、価値がなくなるんやぞ」的なアレが強かった(更に上の世代は更にそうであっただろう)。別に女としての価値なんぞ要らんわいといえばそれはそうなのであるが、「絶対30歳までに結婚したい」と思ってなんとか29歳滑りこみで結婚した、みたいな話も聞いた(そういうのは今もあるのかな)。
 女性に限らず「30歳までに~しておかないと」「20代にやっておくべきなんとか」みたいなのはずっと流行っている。こういう強迫的言辞は良くないよ。30歳になる前にほとんど鬱のような状態になり「誕生日が怖い」と言い続けていた友人もいた。それを乗り越えてもまた35や40のネガティブ節目がやってくるのである。そんな節目はしょせん、10進法の世界だけのことなのに。10進法で年齢を表すことが廃止されれば、「20代にやっておくべきなんとか」的強迫商法は全部意味がなくなる。10進法世界での年齢の節目なんぞは、ちょっとお高い下着を買う口実にするくらいでちょうどええんちゃうかと思う。

 だが私も30歳になる前、大人下着を買うと同時に、「30歳までになんとか」と取り組んでいたことがあった。それはさかあがりであった。もっとマシなことに取り組んだらどうかという気はするがこれは妄執であった。小学校、中学校と、私はさかあがりができないまま大人になった。小学校では「クラス全員さかあがりができるようになる」という目標のもと延々居残りで練習させられた。周囲がどんどん成功する中ついにできるようにならず、最終的に先生が補助台を持ってきて「これでさかあがりの感覚が分かればもうできたも同然」みたいな理屈でなし崩し的に合格ということになった。しかし補助台無しだとなんもできない。できそうな気配すらない。腕の力が弱いとかタイミングの問題だとか助言されたものの何が悪いか分からない、なぜできないのか分からないので改善しようがない。「何が分からないのか分からない」というのは何らかを習得する際の大きな壁であるが、その壁が乗り越えられんまま幾星霜。そこで、30歳になるまでにさかあがりを成功させようと、誕生日までの3カ月ほど至るところの公園に行ってはさかあがりの練習をしていた。大人下着をつけたやつがさかあがりの練習に勤しんでいる様子を想像してほしい。滑稽である。滑稽であるがマジであった。成功したならどんなにか嬉しいことだろうと思った。

 だが結局さかあがりはできないまま誕生日が到来し、うやむやのうちに私は諦めた。35歳になるときにまた小さくさかあがり熱が再燃したが、やはりとてもできる気がせず終わった。このままさかあがりの感覚を知らずに死んでいくのかと思うと悲しい。さかあがりなんて、体育のカリキュラムに無ければ思いつきもしなかった動作であろう。そうであればそれができないことを悔しく感じることも無かっただろう。なまじ体育のカリキュラムにありなぜか全員が一定の学年に達するまでにできて然るべきとされているゆえに、できない事実が重大な欠落となってしまった例である。それに、皆が知っているらしいその感覚、一瞬重力から自由になり世界が逆さに見えるのであろうその感覚を、自分だけは知らないまま死ぬのかと思えば無性に悲しい。

 経験しないままのこと、分からないままの感覚というのは他にもたくさんある。私は妊娠も出産もしていない。よって女性の多くが経験するその感覚を知らない。これは重大な欠落に思える。社会的にすべきこと・できたほうがよいことともされているゆえに引け目も大きい。車の運転をしたことがない。車を動かすのがどんな感じなのか分からない。背が低いため人並みの身長の人に見える景色を知らないし、足が遅いため速く走れる人の感覚が分からない。他、家族愛というものが分からない、恋愛なるものをしたことがない、性交渉をしたことがない、ひきこもっていて外界と長く接していない、等世間でマイナスとされがちな経験の欠如はたくさんある。
 が、それらは世間的にマイナスとされる欠如であるから気になるだけで、私たちは、ともすると死ぬまで経験しない感覚、理解することができない感覚がたくさんある。たとえば、晴眼者は視覚に頼らない世界が想像し難い、健康な者は病や障害とともに生きる感覚がなかなか分からない。また、母語以外の言語で生まれ育った自分、異なる性のあり方で生きる自分、そもそも他者として生きる自分、それらはけっして経験することができない。或いは、お尻から尻尾が生えているのはどんな感じだろう。おっぱいが8個とか10個とかあるのってどんな感じだろう。サバンナで時速300mで駆けることができるのはどんな感じなのか。深海で暮らし続けるのはどんな感じなのか。人間の何万倍の嗅覚があれば世界はどんなふうに認識されるのか。人間とは違う色の見え方で見える世界はどんな感じなのか。塩をかけられて溶けるとき、何を思うのか思わないのか。持ち上げられて口から水を吐くのはどんな気持ちなのか。私は「大昆虫展」に行くくらいには虫好きで蝶の幼虫を飼育していたことがある。彼らは蛹になる前、蛹化のための場所を探してケージを抜け出したり高速で移動したりしていた。今どんな感じなんだろうな、とよく思った。「ああ、蛹になってしまう」と知っているのかただ何らかの衝動に動かされているのか。蛹になっている間、彼らの身体はその中でいったんどろどろに溶けて再編されるのだという。そのとき意識はどうなっているのか。蛹になる感覚とはどのようなものなのか。永遠に経験できることはない。だからわれわれはせめて鱗翅目っぽいブラジャーを身に纏うのだ。いや知らんけど。


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