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調子悪くてあたりまえ松本亀吉自伝_5

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夏休みは終わらない②
1986-1990
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最近、ある人のインタビュー記事をネットで読んで、その人はおれから影響を受けたと言ってくれてて嬉しかったんだけど。ただ、おれのことを説明する話の中に「松本亀吉さんは、ボアダムズの最初の音源のレコーディング費用を出した人」という記述があったんだ。びっくりして、笑ってしまった。そんなの事実無根だよ。

おれはあちこちで「ボアダムズの魅力を最初に明文化したのは自分だ」と言ったり書いたりしてきたので、たぶん、その方はそれを誤読したまま大いに曲解されているんだろうな。

ハナタラシがサイキックTVの来日ライブに爆発物を持ち込んで前座出演中止になったのが86年1月。翌2月にエッグプラントへYBO2のライブを観に行ったら、山塚アイさんが客席で酔っ払ってて「こんなバンドおもろいけ?」と周りの客に毒づいてた。ハナタラシのせいであらゆるライブハウス出禁状態になった山塚さんの寂しそうな姿を見て「あー、アイちゃん、バンドやりたいんやなー」とおれは思った。

案の定、山塚さんはすぐにボアダムズのボーカリストとしてライブを再開した。最初のライブは翌3月。オフマスク00が主催のイベント「虚無への供物」で、ゲストはハイ・ライズだった。ボアのギターは田畑満さん、ベースはチルドレン・クーデターのホソイヒサトさん、ドラムはハナタラシの竹谷郁夫さん。場所は当然エッグプラント。

おれはなぜかボアダムズの出番は最後だろうと思いこんでて、ゆっくり行って、エッグのトイレに入った。なんだかハードロックが聞こえて、練習スタジオのバンドの音だろうなと聞き流して、ホールに入ったらすでにステージで山塚さんが叫んでた。トイレで聞こえたブラック・サバスみたいなフレーズがボアダムズの音だったと気づいて驚いたね。

それ以降、3年間ぐらい、大阪で行われたボアダムズのライブはほとんど見てるんじゃないかな。それぐらい好きで、よく通ってたんだ。だから初期ボアの変遷にはくわしいし、ウォークマンで録音した当時のライブ音源もけっこう残ってるよ。

同じく86年の春。4月8日に岡田有希子さんが自殺した。享年18。おれと同じ1967年生まれ。あまり知られてないけど、その一週間前に遠藤康子さんという17才のアイドルが歌手デビュー直前で飛び降り自殺していて、おれは同世代の女の子たちの相次ぐ自死のニュースにショックを受けた。

もう35年も前のことだけど、今でも心のどこかにユッコの死を引きずってる人は多いと思う。去年、俳優の三浦春馬さんが亡くなったとき「今日のことを30年以上引きずる女の子いっぱいいるんだろうな」と思った。おれは今でも毎年4月8日の12時15分に、どこで何をしてても、必ずユッコの墓がある愛知県愛西市成満寺の方角に向かって手を合わせて黙祷してる。

ユッコの死の翌週の週刊誌には残酷な現場写真が大きく掲載された。うつ伏せに倒れた彼女の頭から飛び出した脳漿が路上に長々と伸びて、キラキラ光ってた。おれはフォーカスもフライデーもエンマも買って、今も大事に持ってる。エンマに載ってる写真のアングルがいちばんキツいね。

ノイズ・カセットを作ったり、メイル・アートとかにアイデンティティを見出していて、不謹慎を美徳としてた気狂いぶりっ子のおれは、彼女の死をきっかけに、数年間チェックしてなかったアイドル・シーンに再び目を向けた。そこにはおニャン子クラブ旋風が巻き起こっていたんだよね。

いま調べたら、86年にオリコン・チャート1位になった46曲のうち30曲がおニャン子関連だって。すごいね。ご存じのとおり、おニャン子クラブは秋元康さんプロデュースで、素人同然の女の子をアイドルに仕立てたアマチュアリズム、というか既存のプロフェッショナリズムへのアンチテーゼがウケた。だから、タイミング的に、岡田有希子の死は「正しいプロのアイドル歌手像」の終焉だったんだと思う。

今だからそんな考察ができるけど、19才のおれは簡単におニャン子クラブに惹かれて、毎日17時から『夕やけニャンニャン』を熱心に見てた。おれ、この年齢になっても、いまだに日向坂とか櫻坂とか好きだから、ずっと秋元さんの術中にハマってるんだよね。こないだ買った櫻坂46「Nobody's fault」の松田里奈さんのPVは泣けたなぁ。

おれが不定期に作って、全国のノイズ・カセット同志に郵送してたコピー・ジン『溺死ジャーナル』は、必然的にボアダムズとおニャン子クラブが主題になっていった。特におニャン子クラブ会員番号36番・渡辺満里奈さんが可愛くて大好きで、心酔しきっていた。雑誌やラジオでの彼女の言葉を箴言のように丁寧にコラージュしてたね。

満里奈がおニャン子に合格したのと、ボアダムズのデビュー・ライブは、どちらも86年3月。渡辺満里奈とボアダムズは同期ってことにしておこう。

おれがライブ・イベントをチェックするために購読していた情報誌『ぷがじゃ』に四コマ漫画を連載してた鉱野鱗太郎という人の作風にシンパシーを感じて、彼に宛てて『溺死ジャーナル』を送ったんだ。そしたら、彼もびっくりするぐらい同じテイストのジンを作っていて、最初の郵便のやりとりでお互いを絶賛しあったのを覚えてる。

前回お話ししたとおり、鉱野とは摩耶山で行われた前衛舞踏のオールナイト・イベント、たしか維新派関連のサークルが主催だったと思うんだけど、そこで初めて会ったんだ。彼とは、背格好も似てて、43キロぐらいしかなかったおれと同じぐらい痩せてたんだけど、髪は金色で腰まで伸ばしてて、ポケットにウィスキーの瓶を忍ばせてずっと酒を飲んでて、そんなやつに初めて会ったから、すごく嬉しかった。

鉱野は京都精華大の学生で、京都市左京区岩倉という町のアパートの部屋をふたつぶち抜いて住んでて、そこを「耽奇館」と名付けてた。おれは関大では結局友人がひとりもできなかったんだけど、耽奇館には何度も泊まりに行った。千里ニュータウンのもやしっ子で世間知らずだったおれに、イリーガルなことも含めて、いろいろ教えてくれた、まさに悪友だ。

核心的なことを的確に話す鋭い男なので、温室育ちで友人のいなかったおれは彼の言葉に傷つくことも多かったんだけど、いつ会っても刺激的で、同学年なのに兄のような存在だった。圧倒的な画才の持ち主で、今もすんごい絵を描いてる。飴屋晶貴という彼の筆名で画像検索してみてほしい。

87年12月11日に、父・松本哲郎が他界した。おれは20歳になっていた。

父は若いころに結核で片肺を摘出してて、肺活量が常人の一割ぐらいしかなくて、一級の身体障碍者手帳を持ってたんだ。大学を出て、母を連れて大阪に戻ってきて、府立吹田高校の英語教師として定年まで勤めてた。無口で厳格で、勉強の好きな人で、亡くなる直前までハングルとか点字とか勉強してたなぁ。

10代のおれが陰気で、どこか抑圧された性格だったのは、家で「父がだんだん死んでいくプロセス」をずっと見ていたからかもしれない。最後の半年ぐらいは帝人の大きな酸素濃縮機が家にあって、ずっと装着してた。自力で咳をして痰を出す肺活量さえなくなって、椅子に正座して上半身を逆さにして真下に投げ出して、気管の痰が口まで垂れ落ちてくるのをじっと待ってる、という父の姿は壮絶だったよ。

東京にいた姉が帰省して、家族の夕食を作ってくれたことがあった。姉は腕をふるって食卓にたくさんの皿が並んだんだけど、父は鶏の唐揚げかなにかを一口だけかじって「ごちそうさま」と言って寝室に戻ってしまった。おそらく父に振る舞う最後の料理だと、みんなわかってた。おれと違って気の強い姉の涙を、初めて見たっけ。

父は豊中市の国立刀根山病院で息を引き取って、翌日に近くの寺で葬式をしたんだけど、その模様は『溺死ジャーナル』7号の特集記事「松本の父、死亡!」に克明に記録されている。鉱野に「こんなこと記事にして配布するやつは世界にキミしかいない」と褒められて、嬉しかったね。

自宅で父の容態が悪化して「いよいよダメだ」と母が救急車を呼んだのは亡くなる二週間ほど前だったんだけど、そのとき、おれは京都の三条寺町にある「スタジオMU」でむちゃくちゃなドラムを叩いてたんだ。

鉱野と、その高校時代からの悪友・小西英登、鉱野と同じアパートに住んでたサックス奏者のシスターメリアン木村氏と、おれの四人で編成されたバンド・PCCBHSはリハーサルともレコーディングともつかぬ、でたらめな即興演奏を徹夜で行っていた。ちなみにPCCBHSは「ピンク・キャンディーズ・クラブ・B組・ひかれ隊・さされ組」の略だ。

当時、恐悪狂人団で活躍してたTHE CRAZY SKBさんが参加してたバンド・殺俱が、京都の「どん底ハウス」で開催してたイベント「寒林集会」に呼んでくれて、おれたちPCCBHSは88年5月25日、華々しく関西インディーズ・シーンにデビューしたんだ。ここから先はもうずっと苦笑いで語るしかないんだけどね・・・。

おれたちは誰ひとり、まともに楽器を弾けないし、鉱野は酒を飲みまくって泥酔状態だし、捕まえてきた鳩をフロアに放すし、当然この手のバンドにはお約束の爆竹を鳴らし、シンナーの瓶を客席に投げつけて割ったり、いろいろめちゃくちゃなことをした。PAの電源を切られて、首根っこをつかまれて、おれたちはどん底ハウスの外に文字どおり放り出されたんだ。どん底ハウスを追い出されるんだから、相当なことでしょ。まさしく最底辺だよね。店の前の公園でしょんぼりしてたおれたちに、店主の坂田さんが優しく声をかけてくれた。「きみらのライブ、おもろかったで。でも、シンナーと爆竹を同時に使うと、火事になるんや」。

鮮明に覚えているのは、激怒したSKB氏が鉱野の背中に飛び膝蹴りを食らわせたシーン。のちに殺害塩化ビニールの「バカ社長」として過激なパフォーマンスを極めるTHE CRAZY SKBでさえブチギレる大乱行をはたらいたPCCBHSは、これに懲りることなく、火事にだけ気をつけて、ライブ活動を継続した。

「東京に行ったことがない」という鉱野の希望で、みんなで新幹線に乗って東京へ行き、渋谷の北谷公園でゲリラ・ライブを敢行した。おニャン子クラブのオフィシャル・アパレル・ショップ「セーラーズ」の目の前だった。レンタルしたカラオケ機材にリズムマシンとマイクを繋いで、小西が入力した性急でチープなビートに乗せて、おれは渡辺満里奈に捧げる詩を朗読した。他のメンバーは拾ってきた一斗缶や公園の手すりなんかを叩いてた気がする。このライブ、中原昌也さんが観ていたらしく、7年後に「北谷公園で会ったことがあります」と言われて、びっくりした。

くわしく話せないけど、東京でもいろんな人に迷惑をかけて、大阪に戻ったPCCBHSは、森山雅夫さんや保山宗明王さんの主催イベントに出演して、中途半端な雑音を奏でていた。そのころ、大好きなボアダムズに変化が見られて、その影響で「おれたちもちゃんと曲を作って、練習をしよう」という、バンドとして当たり前のモードに、やっと到達したんだよね。

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88年8月5日のライブが、ボアダムズのエポックだったと思う。心斎橋ミューズホール、昼の部。このときも共演はオフマスク00だった。

当時まだハナタラシの面影が残っていて、ライブでも排他的なアクションの多かった山塚さんがいきなりMCで「朝早くから観に来てくださり、ありがとうございます」と言ったので、驚いた。ハードロックのフレーズを切り貼りしたかのようなジャンクなアレンジがおもしろかったボアの演奏に、ファンカデリック的なダンサビリティというか、陽気な要素が見えだしたんだ。そして、おそらくこのライブが新ドラマー・ヨシミこと横田佳美さんの、ボアダムズのメンバーとしての最初のライブだったと思う。

山塚さんとヨシミちゃんに、レニングラード・ブルース・マシーンのベーシスト・林さんを加えた新ユニット、UFO OR DIEのライブも凄まじかった。新生ボアダムズのプロトタイプみたいな楽曲が、スリーピースゆえの軽快さでパンキッシュに加速してて、ほとんどパーカッションのようにギターをかき鳴らす山塚さんのボーカルも、最高に冴えてた。恩田晃さんや落合達哉さんと結成したオーディオ・スポーツでのラップ。山塚さんがパンクスとしてもっともイキイキして見えた変拍子ハードコアのコンクリート・オクトパスなど。このころの山塚さんについては、語り尽くせないなぁ。

関西の多くのインディーズ・バンドがボアダムズの影響を受けたんだけど、最底辺のおれたちPCCBHSも、変拍子を多用したおかしな曲を作って、毎週のように中津のスタジオ「ガレージ」で練習をしていた。

90年3月に、岡山のバンド・馬牛馬に誘ってもらって、岡山市「ペパーランド」でライブをしたんだ。おれたちの演奏はグダグダで相変わらずひどかったんだけど、最後に出演した想い出波止場がすごかった。山本精一さん、津山篤さん、長谷川チュウさんのトリオだった時代。カセットで録音した音源が残ってるんだけど、凄まじい熱量と緊張感。想い出波止場のライブ、何度も観たけど、このペパーランドのライブがベストだね。

その夜、おれは山本さんと一緒に、馬牛馬の遠迫憲英さんの家に泊めてもらったんだ。遠迫さんは、今はフローティングタンクで有名な「HIKARI CLINIC」の院長になって、最近よくDOMMUNEに出演してるのを見るね。彼の家は豪邸で「公民館みたいや」と驚嘆した覚えがある。

この岡山ツアーが、おれの卒業旅行だった。

89年秋にちょっとだけ就職活動したら内定をくれたヘンな会社があって、90年の春、おれは会社員になったんだ。

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