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調子悪くてあたりまえ松本亀吉自伝_1

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ニュータウン
1967-1978

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おれが生まれたのは1967年の2月26日。大阪の豊中市服部寿町というところ。同じ豊中の新千里西町に引っ越したのはたぶん3才のときだと思う。もちろん服部の記憶はぜんぜんないね。

千里ってとこは1970年の万博に合わせて整備された人工都市で、たぶん関西一円の若い夫婦がみんな近未来的な憧れを抱いたんじゃないかな。うちの両親はその公団だか府営だかの団地に応募して運よく当選したんだと思う。

当時の日本の叡知を結集して作られた町なんだろうねえ。団地と戸建住宅と幼稚園・小学校が等間隔に配置されていて、小売店・銀行・郵便局・美容院やら診療所なんかが集まった「近隣センター」が、「町」とか「台」という名称で区切られたエリアごとにあった。で、その中心にあるのがその名も千里中央駅。江坂までだった地下鉄御堂筋線を北大阪急行っていう会社が千里中央まで延長した。だから今でも御堂筋線と北大阪急行は料金が違うんだよ。千里中央から桃山台とか、今でも80円じゃないかな。

28才まで千里に住んでたんだけど、あそこは全国的に捉えられてる「大阪」のイメージとは全然異質なんだよね。なにせ人工都市だからルーツが何もない。タクシーの運転手さんが「千里はどの道を通っても同じ形の団地が並んでて、どこ走ってるかわからなくなるわ」ってぼやいてた。車道と歩道も広く区分されて最初からガードレール完備の町だから交通事故が少ない。小学生になって千里以外の町へ行ってびっくりしたのは、歩道が狭くて人の横ギリギリを車が走ってたこと。阪急豊中駅の前でバスに轢かれそうになったもんね。50年以上経ったのにいまだに千里ニュータウンって呼ばれてる、そんな町でおれは育ったんだ。

おれの父親、松本哲郎は大正14年生まれ。
大阪市東住吉区の山坂っていう町に家があって、おれも小学生のころぐらいまでは伯父夫婦が住んでたから時々遊びに行ってた。地下鉄の西田辺から歩いて、長池小学校の近くだった。父は五人兄弟の真ん中だったのかな。おれが覚えているのは伯父の武夫さんと叔父の豊さん。あと、姉だか妹だかが一人と、早くに亡くなった長男がいたらしい。この長男が変人だったらしくて、彼の書斎で表紙に「余の思想」と大書されたノートを見つけた父がページを開いてみると一文字も書かれてなかった、とか、ラグビー好きが高じて「松本羅首」と名乗っていた、とかエピソードの多い人だったみたい。父たちの両親、おれの祖父母については写真で顔を見たことがあるだけで、おれは会ってないんだよね。おれが生まれたとき父は43才で、祖父母はもう他界してた。

父は秀才だったらしく旧制住吉中学から志願して建国大学に進んで、戦争中は満州にいた。渡航費や学費が全部国から出て、在学中も毎月手当がもらえる学校だったから結構な倍率だったんじゃないかな。日本は満州からアジア全土を征服しようとしてたわけだから建国大学は選りすぐりのエリート集団だったはず。今、検索したら「定員150人に受験者2万人」だって。スーパーエリートだな。

学徒出陣の時代だったけど父は「丙種合格」で戦地に赴くことはなかったらしい。そのころのことを詳しく訊きたかったけど、たぶんあんまり語ってくれなかっただろうな。なにせ終戦後、建国大学が閉校されても二年ぐらい実家に戻ってこなかったような人なので。家族はもう死んだと思って葬式をするかどうか検討してたころにふらりと戻ってきたらしい。捕虜としてどこかに抑留されていたのかな。長兄よりずっと変人だよな。今となっては真相はわからない。

あの世代の人々はみんなそうかも知れないけど、八紘一宇で七生報国で一億火の玉みんな天皇の赤子で玉砕だみたいなモチベーションで生きていたのが、敗戦によってすべて逆転したときに、特におれの父みたいな、満州まで行ってお国のために青春の日々を燃やした猛烈軍国少年には想像を絶するジレンマが生じたと思うんだよね。父の空白の二年はこれからの身の処し方を模索する放浪期間だったのかもしれない。

建国大学出身者は大学編入が認められていたらしく、父は上京して東京帝国大学文学部に編入、哲学を専攻した。和辻哲郎の講義を受けて西田幾多郎の研究をしたと聞いたことがある。そういう古典的な哲学の本は千里の家にもいっぱいあった。バートランド・ラッセルの原書とかね。おれは一冊も読まなかったけど。敗戦によるパラダイムシフトが父を哲学に向かわせたんだろうね。まあ、もともと名前が哲郎だしね。

東大生の哲郎さんは労働法令協会という法人でアルバイトをしていた。セールスマンとして企業を回って「これからは労働者の時代です」と労働法に関する本を売っていたらしい。数年前まで建国大学だったくせに、この転向ぶりはすごいよね。で、その労働法令協会で働いてた事務員がおれの母。

旧姓岡本不二子、昭和3年生まれ。
おれを生んだとき母は38才で、おれは母方の祖父母にも会ったことがないんだ。母は東京市本所区の理髪店の一人娘として生まれた。当時一人っ子って結構珍しかったみたい。また後で語ると思うけど、おれは自分の姉貴も美容師だし、結婚した奥さんも、そのお母さんも姉妹も美容師で、生まれながらにしてこの業種とは縁があるようだ。母の若いころの話はあまり聞いたことがないけど、浅草高等女学校を出て、実家の手伝いでもした後に労働法令協会に就職したのかなぁ。時系列で推測すると、父が大学を卒業したのが昭和26(1951)年。在学中に知り合ったはずだからおそらく母は21才ぐらいで父の恋人になったのだろう。

おれの父はエラの張った顔でたいした男前ではなかったけど、一方、若いころの母は、写真を見る限りかなりの美貌の持ち主だった。クリクリした瞳の爽やかな笑顔で細身の割におっぱいが大きく写ってる写真を見た時は驚いた。どこかの原稿に「おれはおそらく東京一の美女の膣に全身を締め付けられながらこの世に登場した」などと興奮して書いた覚えがある。終戦直後の打ちひしがれた町で、あんな早見優みたいなキュートな女の子、さぞかしモテただろうな。

母の生涯を語るのに避けられないのは昭和20年3月の東京大空襲。深川区・本所区・浅草区の市街地に集中した米軍の攻撃で、一晩で10万人死んでる。このとき母は16才なんだよね。岡本家で決めていたルールがあって「空襲で焼け出されたら、群衆とは逆の方向へ逃げよう」ってことだったらしい。3月10日未明に地獄のような空爆があって、多くの人が火の粉をくぐって隅田川を目指して走ったらしいんだけど、母たちは反対方向へ逃げた。どこへどう避難したのか知らないけど、とにかく母たちは生き残り、群衆はみんな死んで、翌日の隅田川は水面を埋め尽くすように無数の焼死体が浮いて真っ黒だった。「あの光景は一生忘れないねえ。あの人たちの代わりに生き延びたんだから、あたしが死んだら言問橋から隅田川に骨を撒いとくれ」。これが母の口癖だった。

母の死についてはおそらく後述すると思うんだけど、老いても若い感覚をキープしてる人だった。佐野元春『SOMEDAY』のLPに封入されてたパンフレットを「このデザインは実にモダンだね」と本棚に飾ってたし、80才近くになっても「ラジオで聴いたキリンジってバンドの歌詞に感激した」とFAXしてきて、おれが持ってたCDの歌詞カードを拡大コピーして渡すと熟読して気に入ったフレーズにアンダーラインを引いてた。朝日新聞の読者投稿欄「ひととき」にもよくエッセーめいた文章を送ってたね。晩年は短歌に凝って『水甕』という由緒ある歌会に参加してた。定期刊行される同人誌では前のほうのページに載るのがステータスらしいんだけど、母の作品の評価は高くて、あっという間に巻頭ページに採用され「あんた、これはねえ、異例のスピード出世なんだよ」と嬉しそうに言ってたな。

どちらかと言うと、おれは母の遺伝子を多めに継承したようだ。よく「大阪出身なのに大阪弁出ませんね」と言われるのはネイティブな江戸弁を話した母の影響だろうし、文章を書くことで自己顕示したい欲求もそっくり遺伝してる。自分としては、父の天才的な学力を引き継ぎたかったけどねえ。

さて、おれ自身の話に戻ろう。
いわゆる最初の記憶は「父親におんぶされて花火を見てた」という光景なんだよね。毎年、西丘小学校の校庭で盆踊りがあって、そのときに花火が打ち上げられた。千里ニュータウンは豊中市と吹田市に分かれるのだけど、豊中市は「新千里○町」、吹田市は「○○台」というエリアに分かれてる。そのエリアごとに毎年盆踊りがあったんだよな。団地のすぐ横で花火打ち上げるんだから今なら騒音トラブル必至だね。まあ昭和40年代のことだから素朴で牧歌的な世界。父の背で見た小学校の校庭の花火はたぶん3才か4才の記憶だろうね。5才の誕生日にケーキの前で記念写真を撮られて、手のひらを広げて5才のアピールをしたのははっきり覚えてる。

豊中市立少路幼稚園に一年通って、豊中市立西丘小学校に入学。幼稚園に一年しか行かなかったので、すでに5才で疎外感を体験した。周りの子は二年目ですっかり仲良くなってるところに一人入っていったんだよ、たしか。初日に「さあ、みんなスモックを着て」と先生が言って、ほかの子たちはあたりまえにスモック着るんだけど、おれ、頭や手をどこに入れるのかさえわからなくて。家では毎日母親に服を着せてもらってたんだろうねえ。もしかしたら激しく過保護だったのかもしれない。スモックを手にして「これを着るってどういうことや…。なんでみんなすぐに着れるんや…」とめそめそしたのを覚えてる。それでもいじめられた記憶はなくて、それなりに適応力を発揮して楽しくバスで通園してた。

小学生のときはかなり活発で自己主張の強い子だった気がするな。なにかあるとすぐ手を挙げて「立候補」しちゃうようなお調子者だった。いちばん酷かったのは6年の運動会。メイン・イベントのクラス対抗リレーでアンカーの子が風邪かなんかで出れなくなったときに「おれアンカーやりたい」って立候補しちゃった。別に足速くないのに、アンカーに憧れたんだろうね。トップでバトンを受けたのに案の定、他のクラスのエースたちにごぼう抜きにされて最下位でゴール。足の回転が気持ちについていかなくて空回りした感覚を今でも覚えてる。

5年生のときに「班ノート」っていう交換日記みたいなものがあって。グループごとに一冊のノートを毎日交代で持って帰って日記を書いて、翌日先生が添削するというやつ。そこでおれはスターだったのよ。とにかく長文で「また最多ページ記録を更新してしまった」なんて書いて悦に入ってた。倉沢くんっていうクラスのボスがライバルで、彼は絵もうまくて、イラスト入りで対抗してくるんだ。「○班でまつもっちゃんが○ページ書いたらしいけど、おれは今日○ページ、新記録なるか」みたいな長文合戦。大変だったのは全部読まされる先生だよね。5年6年はクラス替えがなくて、担任はずっと上永井先生。手塚治虫の漫画に出てきそうな、すごい美女だった。

4年から卒業まで少年野球のチームに入っていたんだけど、そこでも倉沢くんは同じファーストを守るライバルだった。野球はお互いあまりうまくなかったね。彼は天才的なエンターテイナーで、当時みんな夢中だった漫画「マカロニほうれん荘」を『少年チャンピオン』で読んで記憶して身振り手振りで再現して見せてくれるのよ。「マカロニほうれん荘」を一人で完コピって、すごいでしょ。余談だけど当時のチャンピオンは「マカロニほうれん荘」以外にも「がきデカ」「ブラック・ジャック」「ドカベン」「エコエコアザラク」など後世に残る名作が連載されててバイブルだったねえ。

倉沢くんはちょっと珍しい名前だったから、数年前に思い出してフェイスブックで検索してみた。見事にヒットして、東京で居酒屋をやってるみたいだった。ただ、ちょっと過去の更新で止まってて、最後は病気で入院してるような記述があった。友達申請したけど返事はなかったね(←※これ別人でした。倉沢くんは敏腕編集者として長年TBSに勤務しているそうです!:2022/08追記)。


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