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調子悪くてあたりまえ松本亀吉自伝_7

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僕は間違っていた
1995-2000
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1995年1月。三連休を利用して、おれはバンド「まぐろ」のライブ・ツアーと称して札幌へ遊びに行っていた。北海道の寒さで簡単に風邪をひいてしまい、大阪に戻った16日の夜は、早めに布団に入って眠ったんだ。朝5時ぐらいに目が覚めて、たくさん寝汗をかいてたので、パジャマをスウエットに着替えた。よく眠ったので体調はよくなっていた。「会社に行くまで、あと二時間ぐらい眠れるな」と思って、気持ちよく二度寝を始めたころ。

最初はドスンと突き上げられる感じ。マンションの一階にトラックが突っ込んだのかと思った。次は激しい横揺れ。グーラグーラと何度も大きく揺れて「この建物にエンジンがついてて、それが発動して、どこかへ飛び立つんじゃないか」という感覚になった。前日に飛行機に乗ってたからかもしれない。布団をかぶって丸まっていると、乱雑に積んだ棚からCDがたくさん降ってきた。揺れがおさまって、部屋を出ると、台所で母が「すごかったねえ」と笑っていて、床に転がった炊飯器が炊き立ての米をぶちまけていた。わが家の被害はその程度。地下鉄が止まっているので会社を二日休んだ。

阪神・淡路大震災と呼ばれる大地震。大阪府豊中市は震度6という記録が残っている。

おれは2011年の東日本大震災のときには東京にいて、赤坂で商談中だったんだけど、そのときも震度5で、高層ビルだったからめちゃくちゃ揺れたんだよね。いま愛知県に住んでるんだけど、もう震度5以上を経験したくないので、ほんと、おれが生きているあいだは地震は勘弁。「震度5以上を二回経験した人は今後の地震は免除」ってことにしてほしい。

3月には地下鉄サリン事件があって、95年はなんだか日本中が不穏なムードだった。オウム真理教のグルが逮捕された5月16日は、麻原彰晃にとってもおれにとっても運命の日だった。上司の人事課長に呼び出されて、名古屋への転勤を打診されたのが、この日だったんだよね。

名古屋という町に足を踏み入れたことがなかったんだけど、なんかずっと気になってて、名古屋のバンド・割礼が大好きだったし、いつかエッグプラントで観たガラス玉というバンドも好きで「いつか遊びに行きたい」と思ってたので、喜んで引き受けて、翌々週に引越した。

67才になる母が独居老人になっちゃうことはぜんぜん気にしてなかったから、薄情な息子だね。まぁ、千里のマンションは独居老人だらけで、毎晩大勢で集まって麻雀とかしてたから、実際、心配はなかった。

名古屋市中区上前津のワンルーム・マンションが社員寮で、会社の後輩に「家具とか家電とか、どこで買うといいですか」ときいたら「オオスのコメヒョーが近いし、安いですよ」と教えてくれたんだけど、「大須」も「コメ兵」も初めて聞く単語だから何度も聞き直したっけ。部屋の壁には菅野美穂、玄関には中谷美紀のポスターを貼った。東区代官町にあった会社まで自転車で通勤してて、これも新鮮で楽しかったな。

おれは入社して5年間、大阪本社で関西の新卒採用を担当していたので、そのノウハウを東海地区で生かせ、という会社の意向で転勤したんだけど、セールスマンをたくさん採用する会社だったので、最初に課せられたのが「愛知・岐阜・三重で、来春の新卒100人採用」という、けっこう無茶なミッションだった。転勤したの6月だし。一人で大変だったけど、年末までかけて見事ぴったり100人採用した。

会社の人たちはみんな優しくておもしろくて、毎日楽しくて仕方なかった。名古屋は閉鎖的でよそ者に冷たいから苦労するよ、みたいなことを言われてたんだけど、ぜんぜんそんなことなくて、逆に、そんなこと言う大阪人のほうが閉鎖的だと思った。

この、おれの「第一次名古屋(独身)期」は4年続いたんだけど、ほとんど大阪の実家に帰らなくて、盆も正月も名古屋で遊んでた。平日の夜は、会社の人たちとあちこち飲み歩いたり、いちばん親しくしていた伊藤桂吾くんという後輩をほとんど専属運転手みたいにしてて、大いに遊んでたんだけど、休日はほとんど部屋でカセットMTR(マルチ・トラック・レコーダー)に向かってた。

93年の年末にベアーズで知り合った豊田道倫さんの影響で、おれは「ミルク・ティーンズ」という名前で、サンプリングした音源をコラージュして、ノイズと、よくわからないラップを重ねるような、おかしな音楽を作り始めていた。

名古屋で一人暮らしを始めると、その趣味はエスカレートして、TASCAMのMTRを豊田くんと同じ8トラックの大きなものに買い替えて、AKAIのサンプラー、NOVATIONのベース・ステーション、カシオのRapmanっていうキーボードなんかを使って、変なトラックをカセットテープに録音してた。RolandのMC-303というシーケンサーは発売日に矢場町のパルコの島村楽器で買った。『Oh!ゆれ現世』というカセット・アルバムが『SWITCH』で佐々木敦さんに「まちがいヒップホップの傑作」と評されたことがあるんだよ。あれはうれしかったなぁ。


おれは、豊田道倫のソロ・ユニット「パラダイス・ガラージ」とミルク・ティーンズを兄弟のように感じてて、スプリット・カセットを作ったり、パラガの楽曲でラップさせてもらったり、勝手にリミックスしたり、キャロライナー・レインボーの来日公演では、東瀬戸悟さんのブッキングで「パラダイス・ガラージ&ミルク・ティーンズ」っていう名前で二人でベアーズに出たこともあった。

でも、パラガの豊かな音楽的バックボーンと鋭いセンスは、でたらめで底の浅いミルク・ティーンズと比べるまでもなく、95年3月にリリースされた初めてのCD『ROCK'N'ROLL 1500』で当然のようにブレイクした彼はロック・スターの道を駆け上っていった。

豊田くんとのエピソードは、その後、現在に至るまで、痛快なことも悲壮なものも、たくさんあるけど。彼は今もシンガーソングライターとして新作をどんどんリリースしていて、歌い続けていて、過去を振り返らない人だから、ここでは話さない。

でも、ひとつだけ言っておくと、おれは1993年に知り合って以降、彼からもらった郵便やFAXを全部保管していて、カセットやCD-Rも含めてこれまでにリリースされた音源を全部持ってるんじゃないかな。だから、もし「豊田道倫研究」みたいな論文を書きたい学者さんや作家さんがいたら、まず、おれの家に取材に来るべきだと思うよ。たくさん史料があるからね。

94年夏に届いたカセット「家族旅行」をウォークマンで初めて聴いたときのことは、今も忘れられないんだ。

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おれの作っていた卑猥で俗悪なコピー・ジン『溺死ジャーナル』の存在が全国に明かされてしまったのは、96年2月の『クイック・ジャパン』Vol.6。「君はゴミである」という特集で、ボアダムズのYOSHIMIさん、中原昌也さん、ジギー・アテムさん、パラダイス・ガラージのインタビューなどが載っていた。おれはそこに「日本一トラッシュな雑誌・溺死ジャーナルと私」という9ページにわたる自伝みたいな記事を書いてしまったんだ。

当時『クイック・ジャパン』の編集長だった赤田祐一さんが、メルツバウの秋田昌美さんの家で『溺死ジャーナル』を見て、連絡をくれたようだった。秋田さんはメイル・アートの日本代表みたいな存在だから『溺死ジャーナル』を何度か送っていたんだよね。

赤田さんと北尾修一さん、カメラマンの森久さんが、上前津のおれのワンルーム・マンションにやってきて、数時間インタビューを受けたんだけど、どうやら「インタビューより、こいつに書かせたほうが早いぞ」と思われたらしくて、自分で書くことになったんだよね。

赤田さんはおれをおもしろがってくれたようで、その後もコラムを書かせてくれたり、よく覚えているのは、初めてインタビュアーをさせてくれたこと。名古屋のフォーライフ・レコードのオフィスで、立花ハジメさんにインタビューした記事が、97年12月の『クイック・ジャパン』Vol.17に載ってる。ハジメさんがかっこよくてジェントルで、感激したなぁ。このとき「録音した会話を書き起こして、切り貼りして流れを作って、字数に合わせて原稿を書く」っていう作業が楽しくて「おれ、インタビュアー向いてるかも」って思ったんだ。

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『クイック・ジャパン』に書き始めた粗雑で乱暴なコラムがきっかけで、次に声をかけてくれたのが『スタジオ・ボイス』の佐藤英子さんだった。英子さんと初めて会ったときのことをよく覚えてる。

97年の秋、新宿のクラブで行われたAV監督・ゴールドマンさんのイベントに、豊田道倫のパラダイス・ガラージが出演するので、おれは小林賢輔さんと一緒にサポート・メンバーとして参加していた。イベントが終わるころ、カンパニー松尾さんが「亀吉くんに会いたいっていう人が受付に来てるよ。可愛い女の子」と教えてくれた。松尾さんと話したのも、このときが最初かもしれない。で、その可愛い女の子が英子さんだった。イベントを抜け出して、そばを食べに行って、そこで連載のオファーを受けた。その夜は青葉台の英子さんのマンションに泊めてもらった。ゆみえちゃんというルームメイトもすごい美人だったなぁ。

98年は『スタジオ・ボイス』で「槍玉系罵倒派サラリーマン 松本亀吉の 人間失格!亀合格!!」という、これもまたひどい内容のコラムを連載したんだ。

イラストを添えてくれたBBKYことばばかよさんは『溺死ジャーナル』の古い読者で、彼女が高校生だったころからの友人。彼女の絵のおかげでなんとか商業誌の1ページとしての体裁を保てたような気がするね。連載は一年で終わって、次の号から、その枠は坂本慎太郎さんが書かれてた。

文章のクオリティはともかく「雑誌にアホなコラムを書いている会社員」というキャラクターが評価されたのか、次は光文社の『週刊宝石』で連載が始まった。「尾張ーマンBGM日記」というタイトルで、毎週たくさん新譜のサンプル盤やカセットを送ってもらって、それをチョイスして、日記の体裁でレビューするという企画だった。

担当は大宮悦子さんという方で、この人もおれの文章の内容には注文をつけず、でも、改行とか句読点の打ち方を教えてくれた恩人だ。大宮さんとは何度かお会いしたんだけど、覚えているのは一度名古屋まで来られて『週刊宝石』の隣のページで演劇レビューを書かれていた乾貴美子さんもご一緒で、なぜか俳優の河原雅彦さんのご実家の焼肉店で食事した。

この連載は、98年10月から2000年9月まで二年続いたんだけど、途中でタイトルが変わるんだよね。「尾張ーマンBGM日記」から「ノボリーマンBGM日記」に。尾張のサラリーマンから、東京転勤でおのぼりさんになったから、ノボリーマン。よくこんなネーミングでOKが出たね。

「有線の鬼」と呼ばれた強烈なキャラクターの創業社長、偉大なる宇野元忠先生が98年11月にがんで亡くなり、おれの勤めている会社は社名を改めて、本社も大阪から東京へ移転することになった。そのタイミングで、おれに名古屋から東京本社の人事部へ異動するよう社命が下ったんだ。

その頃おれは、上前津の寮から東区泉のマンションに引っ越して、会社の後輩たちと毎日ふざけてて、その模様はライフワークと呼ぶべき『溺死ジャーナル』に記録されている。寮の家賃は会社が7割負担してくれてたんだけど、あえて全額自己負担で広めのマンションを借りたんだよね。結婚するつもりもなかったから、毎月の給料を全部使ってしまうような暮らしをしてた。

雑誌の仕事も快調で、会社も楽しくて、つきあい始めた恋人もいて、名古屋を離れるのはすごくさびしかったんだけど、もともと将来のこととか考えないで、その場しのぎで生きているので、99年の10月、流されるままに東京へ引越したんだ。

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板橋や川崎に寮があるので入れと言われたんだけど、ここでもおれはわがままを言って、自分で借りた池尻大橋のマンションに住むことにした。オフィスは青山だったので通勤時間を優先したんだけど、すぐに溜池山王の大きなビルに移転してしまったので、地下鉄での通勤がつらかったなぁ。

鳴り物入りで名古屋から本社にやってきた32才のおれは、すぐに係長という肩書をもらって、人事部のエースとして活躍するはずだったんだけど、それまで採用の仕事しかしてなかったから、労務管理とか厚生年金基金とか持株会とかの業務を任されて、よくわからなかった。ちんぷんかんぷんな顔をしてるおれを見て、おれを名古屋から呼んだ人事部長さんは、さぞかし期待外れだと思っただろうねぇ。でも、この人事部長は、役員になって今もお世話になってる方なんだけど、なぜかおれには優しいんだよね。

東京に来たらライターの仕事が増えて、『週刊宝石』と『クイック・ジャパン』と、ロッキング・オンが出してた隔月刊誌『BUZZ』の連載、あと『クイック・ジャパン』はときどき特集記事とか取材があった。宇川直宏さんが今でもDOMMUNEでよく話してるマーク・ポーリンのSRLの代々木公演とか、この頃。会場で、CICADAの小川裕史さんに久しぶりに会ったっけ。彼は、おれが卒業旅行で行った岡山で対バンした馬牛馬のメンバーだったんだよね。

そして、太田出版から『クイック・ジャパン』に連載してた「今月の歌姫」をまとめた単行本を出す企画があって、もう、会社の仕事どころじゃない感じだったんだ。

優しい人事部長は、そんなオルタナティブな係長が会社のパソコンで原稿を書いてても、温かく見守ってくれた。『週刊宝石』を読んでくれていて、ときどき「宇多田ヒカルってそんなすごいの?」とか感想を言ってくれたんだ。すごくロジカルで、ドラスティックで、社内的にはちょっと恐れられるような存在の人なんだけど、なぜかずっとおれをおもしろがってくれてて、今もすごく感謝してる。

会社は過去の負の遺産を清算して、上場に向けて大きな変革を起こそうと全社一丸となってた。そんな大切な時期におかしなコラムばっかり書いてる人事部員がいたのは奇跡だよ。あの頃のおれは、会社の妖精だったのかもしれないねぇ。まぁ、今も同じような感じだけど。

このころ、モーニング娘。がブレイクし始めた時期で、セカンド・シングル「サマーナイトタウン」を絶賛するおれの記事を読んだゼティマの宣伝部の田崎千穂さんという方が、資料をたくさん送ってくれるようになった。当時ゼティマのオフィスが表参道にあったので、会社帰りに寄って田崎さんに会ったりしてた。

音源ができたらまずカセットで。そのあとCD-Rに焼いたものと紙の宣材。完パケしたら見本盤。1リリースにつき3アイテムくれたので、当時おれの部屋はモー娘とタンポポとプッチモニだらけだった。

99年1月に、モーニング娘。初めての単独コンサートがあって、田崎さんに招待されて、中野サンプラザへ見に行った。

コンサート後にサンプラザの中で打ち上げがあって、今は亡き音楽業界の重鎮・福田一郎先生が挨拶をされていて「今日のコンサートを見る限り、まだまだ学芸会の域を出ていない」などと厳しいことを言われていた。

いま思い出してもほんとにおかしいんだけど、居場所のなかったおれはうろうろした挙句、なぜか上座っぽい位置に立っていて、つんく♂さん・おれ・平家みちよさんという並びで福田一郎先生の話を神妙な顔で聞いてたんだよね。そのあと乾杯があって、平家みちよにビールを注がれて、つんく♂とコップを合わせた。つんく♂さん「こいつ誰やねん」って思っただろうね。

田崎さんに「もう帰りたい」ってアイコンタクトしたら、なにを勘違いしたのか「ちょっと待ってください」みたいな顔をして、急いでモーニング娘。全員連れてきて「いつも応援してくださっているライターの松本亀吉さんです」とおれを紹介した。飯田圭織さんが「あぁ、あの・・・」みたいな顔でうなずいたけど「絶対知らんやろ」と思ったね。おれは恥ずかしくて「今日良かったです、これからもがんばってください」とか言ってうつむいたら、矢口真里さんと目が合った。矢口真里ってほんと小さいんだな、と思った。

田崎さん、すごく可愛い人で、いっぱいお世話になったなぁ。元気かなぁ。

会社でも家でも書きまくった単行本『歌姫2001』は、太田出版の編集者・大塚幸代さんと一緒に作った思い出の一冊。デザイナーの木庭貴信さんとも打ち合わせを重ねて、ギャラの予算を減らして装丁に充てるほどデザインも凝らして、2000年11月に発売された。

気鋭のライター・松本亀吉のデビュー作品ということで、太田出版もがんばって営業して、発売当初は平積みにされてる書店もあったけど、あんまり売れなくて、最近当時のことを話すとき「6000部刷って、7000部返本されたらしい」ってよく言ってるんだ。このジョーク、一回もウケたことないけどね。

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