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調子悪くてあたりまえ松本亀吉自伝_6

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あらゆるアホな体位
1990-1994
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大学四年の春に「今年受ける授業の時間割」みたいなのを学校に提出したとき、自分のミスに気づいたんだ。

おれは教職課程を履修してて、高校の教員免許を取ろうとしてた。三年のときに必修だった教職科目をひとつ受け忘れてて「四年目に受ければええやろ」と思ってたんだよね。けど、四年になったとき、その講義がゼミの時間帯とかぶった。ゼミはゼミで受けないと卒業できないから、事務局のお姉さんに「これ、かぶっちゃってるんですけど」と言ったら、即答で「来年受けてください」と言われた。

とくに教師になるつもりはなかったんだけど、父が高校の教師だったし、なんとなく自分も教員になるのかなぁと思ってたので、せっかくだから免許は取ろうと、一年留年して、大学五年生になったんだ。だから五年目は週に一回その教職科目だけ受けに行ってたんで、週休六日だった。

教育実習にも行ったんだよ、母校の男子校、関西大倉高校へ。
担当の先生が初日に「髪が長いから明日から切って来い」って言ったんだけど、無視して、ぜんぜん切らないでおかっぱみたいな髪型で行ってた。生徒の前で平気で煙草吸ったりしてたから、先生の心証はかなり悪かったんだろうね。教育実習って、たいていの学生が「優」の評価で終えるんだけど、おれは「可」だったもんな。

千里の古江台という町にあった学習塾でバイトしてたんだけど、そこでもおれは不真面目で、でっぷり太った、やたら偉そうな塾長のおじさんとその取り巻きみたいなお姉さんたちと揉めて「そういうことなら、もう来ないんで」とか言って半年ぐらいで辞めた。帰り際に塾の郵便受けになんかいたずらしてやった気がする。

当時の『溺死ジャーナル』に、その塾の「組織図」みたいなのを載せてて、何年か前に「塾長、元気かな」と思って、彼の名前でネット検索したら、右翼団体の代表になってて、安倍晋三とのツーショットをトップに掲げた立派なホームページを見つけて、びっくりしたなぁ。

大学五年の秋に「このままだと来年の春からやることないぞ」とようやく気づいて、新聞の求人広告欄に載ってた会社の就職説明会に行ったんだ。

ミナミのはずれ、日本橋駅から歩いて松屋町筋を天王寺方面へ向かったあたりに大きな本社ビルを構える会社だった。飲食店に音響機器を売る仕事で、始業が朝10時だと聞いて、気に入った。説明会のあとに面接があって、アナウンサーみたいにやたら良い声の課長さんと話をした。

家に帰ると、その課長さんから電話があって「明日もう一度来てください」と言われて、昨日と同じ応接室に入ったら、人事部長さんとの面接だった。で、家に帰ったら電話で「内定です」と言われた。

就職バブル期とはいえ、おれの就活は二日で終わったんだ。でも、実は、なんと、32年経った現在もおれはその会社に勤めてるんだから、すごい縁だよねぇ。

ここで実名を挙げるのには少し慎重になるんだけど、まぁいいか。
その会社は当時、大阪有線放送社という社名で、今はUSEN-NEXT HOLDINGSという名前になってる。

その歴史について、ここで話すのはやめておこう。めちゃくちゃおもしろい会社なんだけどね。
2020年に児玉博さんが書かれた『起業家の勇気 USEN宇野康秀とベンチャーの興亡』という本が文藝春秋から出ていて、これが、亡き創業社長の強烈な個性とかブラックな過去も含めて、かなりリアルな内容だったんだ。ずいぶんヤバい話も書かれてて、ベテラン社員たちから「あぁ、これ書いちゃうんだ」って声が漏れた問題作。

ここは、おれの自伝なので、おれのことにだけ触れておこうかな。

1990年4月2日。新入社員は西日本だけでも300人ぐらいいて、大阪の本社ビルで入社式があった。フレッシュマンであるおれも行儀よく参加してた。同じ規模の入社式を同時に東京でもやってたから、きっとおれの同期は600人ぐらいいるんだよね。

式のあとに配属される支店が発表されて、迎えに来ていた先輩社員に誘導されて何人かずつ退室して各地の研修に向かったんだけど、おれの名前だけぜんぜん呼ばれないんだ。とうとう最後の一人になってしまい、司会をしていた人事課長さんに「あのー、松本なんですが」と申告すると「あー。きみは人事課や。ぼくの部下やで」と言われて、入社式のパイプ椅子を片付けるのが最初の仕事だった。

人事課は社員採用をする部署だった。営業職の適性が薄いという判断だったんだろうけど、新卒でそこに配属されたのはおれ一人だったから、良いように解釈すると、おれは90年入社組のドラフト1位だったのかもしれない。人事課は社長室のすぐ横にあったので「社長の椅子に最も近い新人です。物理的に」とよく言ってた。このジョーク、一回もウケたことないけどね。

会社の仕事はめちゃくちゃ楽で、きれいな女性社員もたくさんいて、毎日ふざけてた気がする。
そして、おれにとって都合がよかったのは、会社からベアーズが近かったこと。定時に会社を出て、堺筋を越えて、五階百貨店と「○か×」の間の道をまっすぐ歩くのが、ベアーズへの近道。

「難波ベアーズ」は、今も関西アンダーグラウンド・シーンの中心になってる老舗ライブハウスで、たくさんの人たちがその不思議な魅力について語っているけど、おれにとっても、たいていのおもしろいことはベアーズで起こってた気がする。ちょうどエッグプラントが閉店して、機材と一緒にいろんなバンドがベアーズに流れてきた時期なんだよね。

少し遡るけど、ボアダムズの最初のワンマンライブが88年10月8日のベアーズだったんじゃないかな。『恐山のストゥージズ狂』と『ソウル・ディスチャージ』の間で、個人的には、この頃のボアがいちばん好き。10月21日にアメ村のサンホールで、プッシー・ガロアのフロントアクトとして出演したライブも、最高にストレンジで、最高にチャーミングだった。

おれは会社帰りに、熱心にベアーズへ行ってたんだけど、もちろんボアダムズ関連以外でも、いろんなバンドを観た。

いちばん多く観たのは、たぶんKUKUじゃないかな。ベアーズのスタッフの石隈学さんがボーカルだったから、よくブッキングされてたんだと思う。転調の多いハードロックでアイアン・バタフライみたいなキーボードが入っていたような。いや、それはDADOだったかな。

インターフェイスとかリボン・ザ・ランチも似たテイストで好きだったけど、このあたりのバンドは今ネット検索しても何もヒットしないね。BOO BOO'S BIRTHDAYというバンドも好きだった。須原敬三さんの「ギューン・カセット」からリリースされたカセットテープを今も持ってる。アルトサックスとトロンボーンが前面に出たUFO OR DIE、みたいな感じでめちゃくちゃかっこよかったんだ。あと、初期の有が好きで、ビデオカメラで撮ったりしてたね。

おれたち最底辺バンド・PCCBHSは就職しても継続していて、90年6月に四天王寺の「ブッダ工房」というギャラリーで、森山雅夫さん主催のイベントに参加した。ジギー・アテムさん、エンジェリン・ヘヴィ・シロップが出演した。
森山さんの用意したドラムセットがひどく貧相で、タムがひとつもなくて、スネアも破けそうな古いものだったっけ。このイベントのビデオが残ってるんだけど、あまり再生する気にならないね・・・。おれたちはこの日もひどい演奏をして、いやになってしまって、このあとPCCBHSはしばらく休止するんだ。

ただ、このときのジギー・アルファベール・アテム・ドライアイスのソロ・パフォーマンスは壮絶で、奇怪で、圧巻で、のちに東瀬戸悟さんのレーベル「AUGEN」からリリースされたビデオ作品『CIAドライアイスシステム/システム・アンバランス』に収録されてる。

ジギーは『ロック・マガジン』に寄稿していたから名前を知ってたんだけど、森山さんに紹介されて、梅田のマルビル前や大阪造形センターで一緒に即興ライブをした。ルー・リードと伊藤智恵理が大好きで、堺市の家に遊びに行ったときにはレコードをたくさん聴かせてくれた。ジギーのお母様が上品で優美な方で、今もお元気だといいな。

コピー・ジン『溺死ジャーナル』は、定期的に作ってて、これもまた相変わらずひどい内容だったんだけど、全国の文通仲間に郵送したり、出会った人に名刺代わりに渡したりしてた。

いくつかの号は、東瀬戸さんの勤めてた梅田のフォーエバー・レコードに置いてもらって、1000円とかで売ってた気がする。
今思うと、ほんとに怖いもの知らずだったねぇ。だって、気に入らない知人やバンドの悪口をめちゃくちゃに書き殴って、いろんな雑誌のグラビアを切り貼りして無断転載してて。会社の女の子からもらったラブレターを無修正で載せたりとか、皇室ネタの卑猥な記事とか、悪意むき出しのページばかりだったからね。くわしく話せないけど、絶対やっちゃダメなことをしてた。誰かに叱られたくて悪いことをする子どものいたずらみたいな感じ。学生時代に経験しておくべき通過儀礼をちゃんと受けてない感じ。

今も親しくしてくださるロック漫筆家の安田謙一さんが、当時『花形文化通信』に「入獄した愉快犯百人が、差し入れてほしい雑誌一位に選ぶだろう面白さ」なんて紹介してくれたので、調子に乗っていたんだよね。本当は、このあたりで誰かにぶん殴られたり、逮捕されて解雇とか、きちんと罰を受けておくべきだったのかもしれないね・・・。

バンドは2年ぐらい休止状態だったんだけど、デジタル式やウルトラファッカーズなどのバンドで活動していた河合カズキさんが、おれたちに興味をもってくれて「PCCBHSのライブを見たい」と誘ってくれた。

このころ、鉱野鱗太郎は大阪の喜連瓜破に住んでて、よく朝まで千日前のバーで一緒にいたんだけど「久しぶりのライブだから、バンド名を変えよう」ということになって、バーのマスターに「好きな食べ物はなんですか」と訊いたら「まぐろ」と言われたので、それで、おれたちのバンド名は「まぐろ」になった。

ほんとにどうでもいい話になってきたねぇ。

名前といえば、長らくペンネームとして使っている「亀吉」の由来を、どうでもいいついでに話しておこう。
鉱野や小西英登という悪友たちと喫茶店でたむろしていたときに、小学生の頃みんな夢中だった漫画『がきデカ』の話になって「自分たちはポジション的に、あの登場人物のうちの誰にあてはまるか」という議論になったんだ。おれは「こいつら全員こまわり君やんけ」と思ったんだけど、鉱野などは「おれは西城くんに決まってるやろ」などと無理な主張をしてた。ふと、小西がおれを指さして「松本くんは亀吉や」と言うと、そこにいた全員が大いに賛同して、満場一致でおれは亀吉になった。『がきデカ』をご存じない方に説明すると、亀吉は、家が亀の湯という銭湯で、ポジションとしては、いわゆる太鼓持ち。こまわり君やあべ先生を持ち上げて、悪ノリを加速させる役割の人物。貧相にやせている風体も、たしかに似ている。顔はおれのほうが男前だと思うんだけどな。

93年2月19日に、河合くんのブッキングで久しぶりにベアーズに出演することになった「まぐろ」なんだけど、河合くんの意向だったのか、当時の資料では「まぐろPCCBHS」っていう名前になってるね。いつの間にかメンバーが増えてて、鉱野や小西の高校時代の同級生で、のちにASKA TEMPLEとして活躍した弓場宗治さんがギター。劇団維新派の女優・はやしもみさんがボーカル。あと、聞いてなかったんだけど、当日になって維新派の男優さんが着流し姿で登場して踊ってた。

この日のライブを観てた山塚アイさんが、雑誌『スーパー写真塾』にレビューを載せてくれたんだけど、おれたちのことを「まぐろ」と書いてて、それ以降はもう「アイちゃんがそう言うなら」って感じで、バンド名を「まぐろ」に統一したんだ。

このイベントを山本精一さんが「スカムの日」と呼んで、河合くんを中心にした「関西スカムシーン」の発端になったんだよね。

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ベアーズのスケジュールをアーカイブした花形文化通信のサイトがあるけど、これを見ると、おれは93年と94年にたくさん出演してる。

河合くんと二人で組んだユニット「クレア」は、おれがMTRでカラオケ・トラックを作って、それに合わせて二人で振り付けを練習して、歌って踊ってた。局地的に人気があって『セッポンナー』というフリーペーパーがスタジオを用意して、きれいに女装メイクしてくれて女性用の下着をつけて、セミヌード撮影をしたっけ。アリスセイラーさんと嶽本野ばらさんがクレアの影響と思われる「ナタデココ」というユニットを始めたりしてた。まぁ、全員にとって黒歴史だね。

河合くんのウルトラファッカーズにも、一年半ぐらいドラムで加入していて、ベアーズ以外にも十三ファンダンゴや、東京に行って高円寺の20000Vでもライブをした。

「溺死ジャーナル主催」と銘打ったイベントも何回かやって、北海道からバンドを招いたり、山本さんに頼みこんで伝説のバンド「赤武士」をブッキングしたり、まぐろの練習やライブもやっていたはずだし、95年2月15日のベアーズのスケジュールを見ると、ややこしいことに「PCCBHS(まぐろ別UNIT)」という名前でも出てるね。94年11月にはジギー・アテム・バンドの前座として、まぐろと、会社の有志で結成した「未来くん」という大所帯バンドの二つで出演していたようだ。まぐろは北海道へ二度もライブをしに行ってるし、未来くんのメンバーで沖縄にも旅行した。で、クレアとウルトラファッカーズもやってたんだな。

交流のあったバンドの音源を集めた『シースルー・ノースリーヴ・インターナショナル22』というコンピレーション・カセットを作ったのも、94年の秋。石原基久さんの事務所「FALL」が出版してた雑誌『G-SCOPE』に取り上げてもらって、数十本ダビングして販売したはず。会社の女の子に変な原稿読ませたナレーションを曲間に入れてて、これは、いま聴いてもけっこうおもしろいんだよね。

おれは、就職したばかりのはずなんだけど、ずいぶん派手に遊んでて、大はしゃぎだねぇ。

94年11月13日の写真を。

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これがまぐろです。おれ、鉱野、小西、もみちゃん。

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未来くん。おれは会社の悪口を紙に書いて朗読している。右端は会社の後輩の森本ヨシアキくんa.k.a.キングジョー。彼はこのライブをぜんぜん覚えてないらしい。

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CIAドライアイスシステム(ジギー・アテム・バンド)。女装のダンサーがおれの恩師・森山雅夫先生。右でKORG MS-10を操作しているのが弓場宗治。


いろいろ楽しかったんで、長くなってしまうけど、印象的なイベントをいくつか。

ひとつは、93年8月の「スカムナイト2」。
ボアダムズのメンバーが勢揃いで、それぞれ変名ユニットで出演したから、ベアーズが超満員になって、当時、史上最高動員数と言われた。ボアダムズはもう『POP  TATARI』で世界的なスターになってたからね。おれはクレアで出演してた。スーパーボールという女子高生コンビが衝撃的なライブをして、しばらく「関西スカムシーン」の代名詞のような存在になってたね。

この夜は打ち上げがあって、ボアダムズはめったにそんな飲み会をしないらしいんだけど、心斎橋までボアダムズのバンに乗せてもらって、ボアダムズのみなさんとアメ村の白木屋で、普通に座敷で打ち上げをしたのがおもしろかった。山塚さんに「なに飲みますか」と訊いたら「あ、ぼくはカルピスで」と言われたのを覚えてる。

スーパーボールのヨーコちゃんとは、10年後にダニエル・ジョンストンのライブで偶然会って、動物園前から天六まで一緒に地下鉄に乗って帰ったんだけど、相変わらずフワフワしてて可愛かったよ。

94年4月、心斎橋ミューズホールの「水道メガネ殺人事件」も楽しかった。
山本精一さんがいろんな人を呼んで、たいした打ち合わせもなく、順番にステージに上がって、脈絡のないパフォーマンスを演じる「ミュージカル」と称した、大スカムショー。

同じ日にクラブ・クアトロでジョン・ルーリーのラウンジ・リザーズの来日公演があって、おれは前売券を買ってたんだけど、山本さんから「水道メガネ」の出演オファーがあったので、ジョン・ルーリーのチケットを会社のジャズ好きな後輩に売って、ベアーズの近くにあったアコムのレンタル・ショップで大きなアライグマの着ぐるみを借りて、ミューズホールに向った。

おれのパフォーマンスは「アライグマが客席から投げられるボールをバットで打ち返しながら、かかってくる電話にも応対する」というもので、会社から持ち出した電話機を傍に置いて、朝比奈哉さんに客席からビニールボールをたくさん投げてもらって、それをプラスチックのバットで打ち返した。巨大なアライグマの頭部をかぶると視野が狭くて、ボールが見えなくて「ぜんぜん見えへん・・・」と言ったときだけ、ちょっとウケてた気がする。

それから、93年12月の「ベアーズ6周年記念式典 元祖!きちがい対抗歌合戦」も、伝説的な夜だった。
ベアーズのスタッフの忘年会みたいなイベントで、フロアにいくつかコンロが置かれて、ちゃんこ鍋みたいなものをみんなでつつきながら、次々とステージに登場する人たちのパフォーマンスを観るというもので、純粋なお客さんは10人ぐらいだった。

山本さんがセレクトした個性的なミュージシャンがたくさん出演したんだけど、この日いちばんウケたのが、パラダイス・ガラージこと豊田道倫さんだった。ギター一本で歌った「チューニング・マシーン」という曲がおかしくて、隣にいたボアダムズのヨシミちゃんと一緒に椅子から転げ落ちて、床に四つん這いになって笑ったんだ。

おれは感動して、ギターを片付けている彼に声をかけたら、彼は「スカムナイト」に足を運んでいておれのことを知っていたらしく、そこから連絡を取り合うようになった。

「どれだけ奇を衒って、ステージでいかに非音楽的なことができるか」を競っていた関西スカム界隈に、ギターを抱えて大マジメな顔で登場した豊田道倫のフレッシュな場違い感に、おれは「スカムの次」を見せてくれる大きな可能性を感じたんだ。

26~27才だったおれは、93~94年に『溺死ジャーナル』とベアーズで大暴れして、遅れてやって来た青春を謳歌していたんだよねぇ。

父親が生きてたらどんな顔しただろう。厳格だったけど、根っこの部分ではおれなんかよりずっと変人だったから、きっとそれなりに面白がってくれたはず。とか思うけど、父が生きてたらこんなに弾けることはできなかったわけで、ちょっと複雑な思い。

それにしても、おれは会社では一体なにをしてたんだろうね。仕事していた記憶がないね・・・。「ドラフト1位」とか行ってたくせにね。よくクビにならなかったものだ・・・。

1995年は、阪神・淡路大震災に始まって、地下鉄サリン事件とか、不穏なことがいっぱい起こったんだけど、おれにとっても大きな変化が訪れる年になった。

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