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調子悪くてあたりまえ松本亀吉自伝_4

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夏休みは終わらない①
1986-1990
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大阪府吹田市の関西大学の正門の前は、学生向けの店が立ち並んで賑やかな大通りなんだけど、おれが在籍した社会学部は正門の外に増築されていて「関西外大」と呼ばれてた。阪急千里線・関大前駅で、おおぜいの人とは逆に南改札を出て、細いけもの道を登ったとこにある社会学部の校舎に裏から入っていたので、おれはメイン・ストリートにはあまり足を運ばなかった。

高校の話と同じように、大学時代についても、学校でのおれの記憶はすごく薄い。唯一覚えている講義は、植島啓司先生の「宗教学概論」。
植島先生は当時『分裂病者のダンスパーティ』という著書を出したばかりで、この本は「サブリミナル効果」を日本で初めて紹介したとされてる。ほんとかな。講義も破天荒で「アブノーマルなセックスをした日はメモしよう」とか「政治や経済の仕組みがどんなに変化してもロックンロールは向こう1000年変わらない」とか言ってた。今でも植島先生の新刊を見かけるとつい買ってしまうんだよね。

おれは『ロック・マガジン』『フールズ・メイト』『宝島』を愛読するニューウエーヴだったから、スポーツ・サークルなんかのやつらを軽薄な連中だと蔑視していて、どんな勧誘もすべて無視した。一度、合気道部かなんかの屈強な男たちに囲まれて部室に連れ込まれそうになったけど「腎臓が悪いんです」とウソを言ったら解放してもらえた。

しかし、マンモス校だけに、ニューウエーヴな新入生はおれ以外にもいて。名前とかぜんぜん覚えていないんだけど、ある同級生と仲良くなって、何度か部屋に遊びに行った。今にして思うとちょっと小山田圭吾氏に似た青年で、どういう経緯だか忘れたけど、彼はおれにエレキ・ギターを2000円で売ってくれたんだ。赤いボディのグレコのSG。このギター、おれのノイズ発信機として、このあと長年にわたり活躍するんだ。

当時はインターネットがないから、公衆トイレの落書きが、ネット掲示板とかTwitterの捨てアカウントみたいな機能を果たしてたと思う。関大の生協のトイレはひどくて、複数のテーマが並行して、壁一面に、いわば落書きのスレッドがいくつも立ってる状態だった。おれは、そこには積極的に参加しなかったけど、鬱屈してるやつらがけっこういるんだな、と思って楽しく読んでた。

高校時代とはちがって、他人に対して自分のセンスをアピールする欲求が芽生えてたんだけど、こっちはあいにく『ロック・マガジン』の「エターナル・スピリッツ宣言」を行動原理にしてて、なにせ前回見ていただいたとおり「僕達は卑俗だ!猥雑だ!汚辱だ!」を教義としてたわけだから、自伝には語りにくいことも、いろいろしたなぁ。

ある日、サークルを立ち上げようと思ったのか、あるいは「サークル」というもののパロディを演じたかったのか、グラビアのアイドルと医学書の男性器の写真をコラージュしたA3サイズの紙をコピーして、文学部の壁に何枚か貼ったんだ。自分がいた社会学部じゃなくて、文学部の連中のほうがこういうの刺さるんじゃないかと思ったんだろうね。植島先生も文学部の助教授だったし。でっち上げたサークルの名前は『C.B.A.S.M.』。Cute Beat Actions for Super Morbidの略。で、家の電話番号を載せといた。ちんこ丸出しポスターは一日も経たないうちに全部剥がされてしまったようだけど、一人だけ電話をしてきた人がいて、ヨウコさんという女性だった。

ヨウコさんは文学部の学生で「サロン・コスメディア」という音楽サークルに入ってた。TOM★CATのボーカルみたいなルックスで、異性としての魅力は感じなかったし、そういう関係にはならなかったけど、おれの最初のガールフレンドだね。中一の三学期以降、同世代の女性と話したことなかったからねえ。ずいぶん成長したものだよ。ヨウコさんは文学少女らしく稲垣足穂とか澁澤龍彦とかを教えてくれて、少し読んだけどピンとこなかった。ここでピンときてたら、おれはきっと作家になってたと思うんだけど。ぜんぜんピンとこなかったね。いまだにピンとこないね。

学園祭で、サロン・コスメディアが主催するイベントがあるというのでヨウコさんに連れられて観に行った。社会学部の食堂で開催されたイベントの名前は『ザ・庭園電気ショー』。メイン・アクトは上野耕路さんと清水靖晃さんのデュオ・ユニット。高野寛さんがリーダーだったSOFT。のちに花電車、ボアダムズで活躍するヒラさんがボーカルの遊星ラビリンス。ほかにもLOOP、A Dacade-In Fake、Club New Kyotoなど『ロック・マガジン』やその後続誌『EGO』で名前を知っていたバンドが出演していた。これが、おれが初めて観る「ライブ」だった。

関西の情報誌『ぷがじゃ』でイベントをチェックして、おれは一人でライブハウスへ行くようになった。見たいと思うバンド、たとえばオフマスク00とか少年ナイフとかソルマニアとかは、たいてい大阪市西成区の花園町「エッグプラント」でライブをしてたんだ。

エッグプラントはいまだに同世代の人のあいだで話題にのぼる伝説的なライブハウスだね。少し上の世代の人はマントヒヒ~スタジオあひる~エッグプラント~ベアーズという大阪アンダーグラウンドの系譜を語るんだけど、おれはエッグプラントの最後の4年ほど、85年から89年の閉店までよく行ってた。

エッグプラントのおもしろいところは、ホールの手前に練習スタジオがあって、イベントの開演前には観客と、スタジオで練習してるバンドのメンバーがロビーに混在して休憩してたこと。だから、ミンカパノピカを観に来た可愛い女の子と S.O.Bがソファに並んで座ってたり、イノセント・ラバーズを観に来たおれみたいな貧相な少年にOUTOのメンバーがライターの火を借りたりしてた。入口の自動ドアの反応が悪くて、体重の軽いおれはいつも何度かジャンプして踏んで開けてたなぁ。

エッグプラントの思い出はたくさんあるんだけど、いちばんヤバかった話を。
東京のクリミナル・パーティーっていうノイズ・パフォーマンス・ユニットが出演したんだ。ELLEさんっていう男性のソロ・ユニットだった。当時、非常階段やハナタラシの影響が大きかったと思うんだけど、ノイズというと暴力的なイメージだったんだよね。でも、どのバンドもギリギリのところでエンターテイメント性をキープしてて、少なくともおれはライブ観に行ってケガをしたことはなかった。けど、このクリミナル・パーティーは、完全に一線を超えてたんだ。

ELLEさんは出番前からロビーで仔犬を抱いてニコニコしてて、気持ち悪かったんだけど、ステージに登場すると、連れてきてた数匹の仔犬を、自作の三角木馬みたいな装置へ次々に打ちつけて殺していったんだ。首輪に紐を繋いだ、怯えて震えてる仔犬たちを容赦なく振り回して、勢いをつけて切り立った板にぶち当てる。可愛い仔犬たちがあっという間に血塗れになって、白目をむいて板の斜面をずり落ちながら絶命していくのを見せられたんだよね。

たいていのバイオレントなパフォーマンスに寛容なエッグプラントの客も、これにはさすがに怒った。隣で観てたエンジェリン・ヘヴィ・シロップのギタリスト・中尾峰さんが泣き叫びながらステージに椅子を投げつけてた。

少し話が前後するんだけど。
『フールズ・メイト』に『HUSH』というミニコミが紹介されてて、おれはその作者の森山雅夫さんに郵便でコンタクトをとったんだ。森山さんは『ロック・マガジン』のスタッフで、レコード・レビューや自作の絵画が載ってたから、名前はよく知ってた。『HUSH』がすごくおもしろくて、おれはそれをまねして『ミドリちゃん通信』という冊子を作った。1986年の話。

そのころ、おれはもう、ハナタラシに夢中で、山塚アイさんが最大のアイドルだったから、一人でラジカセやヤマハの小さなキーボード「ポータサウンド」を使ってノイズ・カセットを作ってて、そのときの名義がミドリ・カセッツだったんだよね。

ミドリ・カセッツは『フールズ・メイト』の自主制作盤紹介コーナー「日本の音楽」で高評価をもらったことがあって、そのときは注文が殺到して100本ぐらいダビングして全国に郵送してた。のちに掟ポルシェさんに「TOKYO IDOL FESTIVAL」で会ったとき「松本さんの『キュート・ノイズ』持ってますよ」と言われて驚いた。掟さん、物持ちが良いみたいで、カセットのスリーブと同封してた19才のおれの手紙の画像をメールで送ってくれた。

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森山雅夫さんは、おれより16才年上で、今も大阪の十三に住んでる。いろんなイベントに誘ってくれて、どこに行っても一人だったおれにたくさん知人を作ってくれた恩人だね。堀江のギャラリーでは、40318というユニットで音楽を作ってた石原博文さんや、『ロック・マガジン』でメイル・アートについて寄稿してた渡辺靖之さんに出会った。神戸の摩耶山の廃墟ホテルで開催された前衛舞踏のイベントでは、のちに一緒にバンドを組んで、おれに大きな影響を与えることになる鉱野鱗太郎に会った。

87年12月に梅田の大阪造形センターで、森山さん率いるユニット・極道ツインズのライブがあって、おれはそのギタリストとして、同級生から買ったギターを演奏したんだ。演奏といっても、チューニングもコードも知らないから、その場で石原さんにもらったオーバードライブを繋いで、とにかくめちゃくちゃな爆音で不協和音を出してただけ。それを見ていた中尾峰さんがやけにおれに興味を持ってくれて、打ち上げの居酒屋でも、いかにおれの演奏に感銘を受けたかを熱心に語ってくれた。「私もギター始めよう」と言う中尾さんと、そこから4年ぐらい恋人としてつきあうことになるんだ。

中尾さんの行動力はすごくて、すぐにクラシック・ギターを習い始めて、メンバー募集をして女性だけのバンドを組んだ。メンバーみんなレニングラード・ブルース・マシーンが好きで、最初は田畑満さんのニックネームをとって「タバタマラ・イン・ヘヴィ・シロップ」というバンド名だったんだけど、それはあんまりだと忠告したねぇ。「プライマリー・カラー」っていう候補もあった。最初のライブは天王寺のスタジオアリス。「エンジェル・イン・ヘヴィ・シロップ」という表記だったんだけど、おれが作ったフライヤーでは、エンジェルとインをアポストロフィでつないでて、「エンジェリン・ヘヴィ・シロップ」が正式なバンド名になった。

しばらくボーカリストが固定しなくて、BCレモンズの飯田充宏さんが参加したり、トヨシマくんっていうヒッピーみたいな青年が加入したりした。トヨシマくんはヨガにハマって「オウム真理教っていうとこでヨガを極めてくる」と言って山梨に引っ越しちゃったんだけど、その後どうなっただろうね・・・。結局、ベースの板倉峰子さんが歌い始めたら、これが実に儚いウィスパー・ボイスで、妖艶で幽玄なエンジェリンの音にばっちりハマった。すぐにJOJO広重さんに気に入られて、アルケミー・レコードからCDをリリースすることになったんだ。エンジェリンのファースト・アルバムのジャケットはおれの盟友・鉱野鱗太郎が撮ってるんだよ。

おれは『ミドリちゃん通信』を『溺死ジャーナル』と改名して、コピー・ジンを量産してた。都島に住んでた渡辺さんの家に家庭用のコピー機があって、突然お邪魔してめちゃくちゃコピーして大量に紙を使ってた。ひどいときは渡辺さん留守なのに、お父様にあいさつだけして勝手にコピー機を使ってた。一円も払わずに。そういう非礼はあちこちでしてたような気がする。

エンジェリンの中尾さんは、おれのことずっと「溺死くん」って呼んでた。数年後、おれが就職してから、ちょっとひどい別れ方をしちゃったんだけど、中尾さんまだ怒ってるかなぁ。

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