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調子悪くてあたりまえ松本亀吉自伝_2

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シンデレラ サマー
1979-1981
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1979年に豊中市立第九中学に入学。九中の校区は新千里西町と南町で、あと上新田の子たちも通ってた。今、Wikipediaで「著名な出身者」を見たら矢井田瞳と藤井隆が卒業生みたい。知らなかった。

部活が必須で、おれは小六まで少年野球をやってたけど九中の野球部は顧問の先生の暴力がひどいことで有名だったので敬遠して、ハンドボール部に体験入部した。なかなか筋は良かったと思うんだけど、まだ手が小さくてボールを掴めなかったんだよね。結局、6才上の姉がバドミントンをやっていたので道具を譲り受けてバドミントン部に入った。

こういう思い出は加齢とともに美化されていくんだろうけど、おれバドミントン結構うまくて、低く落ちるシャトルたいてい拾えたし、エグい角度でスマッシュ打ってた気がする。ただスタミナはなくて水泳の授業で50m平泳ぎして倒れたことがある。ぐるぐる目が回ったので体育の先生に「目が回ります」と訴えたら、顔色真っ青だったらしく「貧血やん。日陰で寝とれ」と優しく言ってくれた。それが野球部の暴力顧問なんだけどね。

思春期だから、そろそろエッチな話になってくるんだけど。
おれにセックスのすべてを教えてくれたのは杉野くんという同級生。彼は野球部で頭は丸刈りだけど、小柄で眼鏡をかけていて、あまりスポーツのできそうな感じじゃなかった。特に親しいわけでもなかったけど、彼は話したくて仕方なかったんだろうね、おそらく前日に知った、セックスのすべてを。
「まつもっちゃん。女にチンチンがないことは知ってるやろ。その代わりに穴があるんや。で、男のチンチンを女の穴に入れると赤ちゃんができる。それをセックスというらしい。そして、三年の今井先輩はそれをしたことがあるらしい」。

どんどんくだらない話になって下井草秀さんに申し訳ないんだけど、おれの性の目覚めは、中学の体育館のステージの上だった。
どういうことかと言うと、バドミントン部の練習のときにステージの袖で着替えをしてたんだよね。で、ステージの上手が男子バドミントン部、下手で女子バドミントン部が着替えをしてたんだ。広いステージを挟んで距離があるし、女子はカーテンなんか使って着替えてるところを隠すから、はっきりとは見えない。だいたいジロジロ見るのも女性に失礼だ。けど、どうしたって意識は100パーセント舞台下手に向くじゃない。女の子のブラジャー姿とかチラチラ見えるのよ。あれはおれの性的な傾向に大きな影を落としたね。

中学一年の冬に、おれの人生にとって大きな転機が訪れた。
それは「父親が隣町にマンションを買って家族で引越をした」っていうだけの話なんだけど。新千里西町の公団から新千里北町の分譲マンションに転居したんだよね。

千里ニュータウンって、地形としては「千里丘陵」と呼ばれる丘で、北町のマンションは地理的にその頂上に位置していて、しかも最上階だった。遮るものが何もないから、南に向いたベランダからの眺望がすごく良くて、おそらく父はその景色を気に入って買ったんだろうな。晴れた日には奈良の生駒山から金剛山まで見えて同じ視界に大阪港の海面が光ってた。東側を向くと絶妙なアングルで太陽の塔が見えるのも嬉しかったな。

丘のてっぺんであることに加えて、マンションの前が市営の野球グラウンドだったんだ。だから視界が良かったんだね。ただ、毎年夏になるとその野球場で盆踊りが開催されるのが、やかましかったなぁ。前回話した町ごとに行われる盆踊り、新千里北町は北丘小学校の校庭じゃなくて、その野球場で開催されてたんだ。毎年同じカセットテープで何十回も繰り返されるラウドな「一休さん」と「アラレちゃん音頭」に家族で困惑してた。のちにそのマンションはおれの名義になるんだけど、2018年に売却した。その話はずっと先にするかもね。

で、引越のなにが人生の転機だったかと言うと、転居によって校区が変わったことなんだよねぇ。通ってた豊中九中の校区は新千里西町と南町。引っ越して来た北町は豊中八中の校区。住まいは1.5kmぐらいしか移動してないんだけど、おれは中一の三学期から豊中市立第八中学に転校した。八中のWikipediaには「著名な出身者」の項目がないね。のちにわかったことだけど、おれの新しい通学路にあった新千里東町の高層マンションに山崎春美さんが住んでた。春美さんと親しくなって千里中央の喫茶店で東町の自転車屋の主人の悪口を言い合うのも、ずっと後の話。

九中でバドミントン・ラケット振るって快活だったおれは、転校した八中では、どうしたわけかずいぶん無口で陰気な少年になってしまったんだ。なにがきっかけなのか覚えていないんだけど、バドミントンをやめてしまったのが一因かもしれないな。とにかく中一の三学期から、今で言う陽キャから陰キャへ完全にシフトした。陰キャとしてのレベルは高校に入ってから加速度的に高まってより強固になるんだけど、中学のときはまだかろうじて親友と呼べる存在がいた。それは畑島知之くんという同級生だった。なぜかみんなチシキって呼んでた。

チシキは東町の団地に住んでて、おれは学校帰りにいつも遊びに行ってた。
彼の家には当時まだ高価で珍しかった家庭用のビデオデッキがあって、漫才ブームの絶頂期だったから録画した「THE MANZAI」で紳助・竜介やザ・ぼんちを観てた。彼の家はすぐ隣の棟にもうひとつあって、そこにはおばあさんが住んでいたんだけど、そこにもよくお邪魔した。彼はラジカセも高級なのをいくつか持っていて、おばあさんの家の空いている部屋でよくやってた遊びは「レコーディング」。ヒット曲を流してそれに合わせて、おもちゃのギターや空き缶を鳴らして、それを別のラジカセで録音するというもの。レパートリーはあまり覚えていないけど、当時おれたちが大好きだった石川優子や松田聖子、YMOとか横浜銀蝿の曲をカバー(とは言えないね)していたように思う。

おれたちは「スネークマンショー」の強い影響下にあって、コントめいた会話や、阪急電車の中でフィールド・レコーディングした全然知らないおじさんたちの声などをコラージュして、それらの音源と「レコーディング」した曲をコンパイルしたカセット作品を作っていた。おれもラジカセを二台持っていたので、歌謡曲に全然知らないおじさんたちの声をしつこく挿入する前衛的なトラックを制作していた。すべてがチシキとおれにしか通用しないジャーゴンだから、他の誰が聴いても理解できないんだけど、おれたちは完成したカセットを繰り返し聴いて腹を抱えて笑ってた。

チシキとおれによるサウンド・プロダクト・ユニットの名前は「OMJ」だった。当初は「大見謝(おおみじゃ)軍団」と称していたけど、YMOの影響でローマ字の略称にしたんだろうね。大見謝というのは沖縄の姓で、高校野球観戦が共通の趣味だったチシキと春のセンバツ出場校の選手名簿を見ていて、沖縄・興南高校の大見謝和裕という選手の珍しい苗字を気に入ってしまったんだ。

おれたちOMJは、興南高校へ大見謝選手宛てのファンレターを送った。たぶん「あなたの名前を冠したバンドをやっています」とかなんとか書いたんだろうね。さらに恐ろしい機動力なんだけど、OMJは大見謝選手に接見するべく、センバツを控えて公開練習をする興南ナインを甲子園球場で待ち伏せして、背番号9の大見謝選手に駆け寄ってインタビューを試みた。「ファンレター送ったのぼくたちです!」とか言ったんだろうね。大見謝くん大迷惑だったに違いないけど「あ、ありがとう」かなんか言ってくれた気がする。当然その声も録音していて、OMJのカセット・アルバムに収録されたはずだ。

ちなみに今「高校野球 興南 大見謝」で検索したら、おれたちのアイドル・大見謝和裕さんは確かに81年のセンバツに出場してる。興南は、のちに横浜大洋に入団するエース・竹下浩二さんを擁したものの、準優勝した印旛高校に一回戦で敗退。夏の甲子園にも出場しているが、こちらも一回戦で、のちに横浜大洋に入団する松本豊投手を擁する秋田経大附高に敗れている。


なんの話をしてたんだっけ。

チシキの行動力は抜群で、まだ中二なのに、素人が出演するものまね番組のオーディションに合格してフジテレビまで行って収録して、ゴールデンタイムに全国放送されてた。彼の最高傑作は当時ニュースキャスターだった俵孝太郎氏のものまね。甲高い声で「コンバンワ、タワラコータローデス」と言うだけのネタなのだが、これが爆発的にウケた。のちに俵孝太郎のものまねをする芸人を見たことがあるけど、世界で最初に俵孝太郎のものまねをしたのは間違いなくチシキこと畑島知之くんなんだよ。  

おれは野球や相撲を見るのが好きな子だったんだけど、中学のときはラジオばかり聴いてた。関西の各ラジオ局から郵便でタイムテーブルを取り寄せて、全部記憶してて、何曜日の何時にどの局で誰が話してるかをほぼ把握してたね。

『ラジオマガジン』という月刊誌も愛読してた。ラジマガでは毎月読者がハガキで投票する人気DJのランキングが載ってたんだけど、1通でもエントリーがあれば名前を載せてくれることに気づいて、おれは架空のパーソナリティとして自分の名前を書いてハガキを送ってた。中二だけに許されるいたずらだよねぇ。

つい最近それを思い出して『ラジオマガジン』読みたくなって、メルカリで検索したんだよね。そしたら奇特な出品者が、その「人気DJランキング」のページを写真に撮って商品紹介画像としてアップしてたんだ。よーく見てみると「まつもと拓也」って載ってる。これがおれの架空のDJネーム。

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しかし、この出品者さんは蛍光ペンでなにを集計してたんだろうね。

いちばんよく聴いた番組は、やっぱりMBS「ヤングタウン」。特に木曜日の笑福亭鶴光・角淳一・石川優子の時期にハマってた。石川優子の「シンデレラ サマー」がヒットして『ザ・ベストテン』の出演をヤンタンのスタジオから生中継したときは感動したね。

ヤンタン木曜は大人気で、SABホールで「ど角ど鶴のええかええかコンサート」というイベントが開催された。おれはチシキと一緒にチケットを買ったんだけど、両親が「中学三年の夏は受験勉強に専念せよ」みたいなことを言いだして、行けなかったんだ。そんなにうるさいことを言う親じゃなかったんだけど、このときだけはやけに強硬に反対された。きっと見せたチケットの、イベント名やイラストの下品な感じがダメで、厳格な父親が許可しなかったんだろうなぁ。

すごく行きたかったから悔しくて、でも「こういう理不尽を我慢するのがオトナになるってことなんだろうな」と解釈した。で、なぜかよくわかんないんだけど、部屋の勉強机の上に仁王立ちして「この悔しさ、一生忘れないでおこう」と呟いて、自分でそれに感動して号泣してた。だから本当にまだ覚えてるわ。

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チシキとは別の高校に進学したので疎遠になってしまい、OMJは自然消滅したけど、陰キャ街道を一直線に邁進したおれと違って、彼は華やかな道を歩んでいた。大学生になった彼は関西テレビでADのアルバイトをしていて、深夜の人気番組「エンドレスナイト」では高見山に似てるという由来で「ジェシー」というニックネームを付けられ、司会の兵藤ゆきにいじられてた。いや、きっと番組で高見山のものまね披露してたんだろうな。あの「ニバイ、ニバイ」ていう高見山のものまねも、チシキがオリジネーターなのかもしれないよ。

その後の彼の動向はわからないんだよね。ちょっと家庭環境が複雑で、苗字が変わったりしてたから、手掛かりがない。チシキ、おれのこと覚えてるかなぁ。

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