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鎌田順也 追悼文集 【テニスコート 吉田正幸】

懐かしき北区の我が家

ナカゴーと僕の所属するテニスコートは世代や属性が近いからかイベントなどで一緒になる機会が度々あった。ただ鎌田くんとは会っても軽く挨拶する程度で個人的なことはほとんど何も知らない。だから僕には彼についてのエピソードや思い出話は書くことができない。でもその作品については書くことができるかもしれない。僕がナカゴーやほりぶんに行けたのはたぶん10回くらいではあるけれど、それでもずっと思っていたことがあるのでそれを書かせてほしい。それは家族団欒の話だ。

【一】

鎌田くんが作演出したナカゴーやほりぶんの舞台を見た人ならわかると思うけれど、たいていあり得ないような登場人物たちがあり得ないような話をあり得ないようなアクションで展開しあり得ないくらいメチャクチャになって終わる。で凄くびっくりする。そしてなんでびっくりしているのかわからないまま帰る。ざっくり言うとそんな観劇体験、と言っても言い過ぎではないと思う。

あれだけ荒唐無稽だとふつう「ついてけない!」とか「夢?」「は?」「まぼろし?」とかゆう反応で終わっても不思議じゃないけど、ナカゴーやほりぶんの場合なぜかびっくりさせられて、笑わされて、たまにホロリとさせられている。色んな感情が揺さぶられるってことは、荒唐無稽な話でもどこかリアルに感じてるってことだけれど、もしかしたらそのことにびっくりしているんだと思う。びっくりしている自分にびっくりしているというか。

でも考えてみると演劇は舞台上にいない人(超人とか死人とか)やあり得ない出来事(未来や過去や異世界とか)をそこに実際にある(いる)かのように見せることで成り立っているともいえる。だいたいが荒唐無稽だ。でもだからこそ、それを成立させることができるかってことに賭けてるところがある。

そもそも現実にないものをあると感じるのは不思議なことだけどそういうことはあって、その場にないものでも、例えそれが偽物だとわかっていても強くイメージ(体感)することさえできればそれは事実や実体はなくてもその人にとっては「本当」になる。

ただこれを実現するのはむずかしい。舞台上にないものといえば、わかりやすいところで言えば例えば暴力がある。試しに舞台上で実際に殴る蹴るを行えばもちろん本当になるしそう見えるけど、引き換えに演者は加害者になり被害者になり観客は目撃者になってしまう。もうそれは演劇ではなく日常の事件だ。だからどうしたって舞台で暴力(に限らず芝居全般そうだけど)を見せたい場合は嘘をつくことになる。ってことは暴力を見せたい時は「これ、嘘だけど、本当の暴力なんです。信じてください!」という矛盾したメッセージを発することになる。つまりこの「嘘だけど、信じて!」が成功した時に舞台上になかったはずのものがないままあるものに変わると言える。実体や事実はないけれど「本当」になる。あり得ない物語が成立する。

そしてこの矛盾した「嘘だけど、信じて!」が鎌田くんとその演者達は凄かったんだと思う。

鎌田くん達のとった方法はひとことで言えば「材料と仕組みを丸見えにする」ことだった。これは「舞台上にある人・物のみで劇をする」と言い換えてもいい。というとなんだか当たり前にも聞こえるけど説明させてほしい。

例えば、ナカゴーの発明ともいわれる「偽殴打」と「偽キス」というものがある。僕が勝手に名付けたものだけれど、「偽殴打」は殴る側が片手で自分の胸を殴って音を出し、同時にもう一方の手で相手を殴る素振りを見せ、殴られる側がタイミングに合わせて飛ぶ事で殴ったことを、「偽キス」はキスする側が両手で相手の顔を包み、親指を唇の部分に添えその指に音を立てて口づけする事で激しすぎるキスシーンを感じさせようとするものだ。どちらも見せたいのは暴力と言っていいものだけど、実際その場で行われているような錯覚に陥らせることに成功していたように思う。

なぜだろうか。「偽殴打」の場合でいえば、確かに実際の殴打とパッと見は似ている。でもいくら同じ生身の殴打音とはいえその出所は実際とは違うし、殴られる動きもいくら激しいものとはいえ自分から繰り返し宙に飛ぶさまはダンスのようだし、何よりそれらが丸見えになっていた。にもかかわらず錯覚が起きていた。

考えられるのは、おそらく「実際に人が殴られた時に感じるショックの総量」と、過程はどうあれ「舞台上の見た目や音や動きから受けるショックの総量」だけは釣り合っていたということではないだろうか。材料は違うけれど出来たものが同じというか。違う式だけど同じ答えみたいな。

プリンに醤油をかけて食べるとまるでウニというテクニック?裏ワザ?リトルグルメ?があるけれどあれみたいなものだと思ってほしい。これは食べなれてないウニの解像度の低さからくる錯覚だと思うけれど「実際にウニを食べた時のショックの総量(味わい)」と「プリンに醤油かけて食べた時の口当たりや風味などのショックの総量(味わい)」が釣り合っているのだ。材料は違うけれど結果出来たものはあたかも「ウニ」なのだ。そう考えると、ないはずの暴力をもろもろの材料から勝手に引き出したのは観客の側だと言える。

そしてここで一番大事なのは、この「偽殴打」を見ている人が感じているのは、舞台上にないはずの「暴力が現れた!」という感覚ではなく「暴力を感じてる! なぜだかわからないし違うんだけど!」という矛盾した感覚だ。矛盾に取り残されるといったらいいだろうか。だからその矛盾に耐えられなくなって思わず笑ったり、びっくりしてしまう。全ての材料と仕組みが丸見えだからこそ、その結果とのズレがはっきり見えてしまう。

プリンと醤油でウニの例でいえば「ウニだ!」ではなく「これとこれでウニ?全然違うのに!」という感覚だ。むしろ自分が勝手に「ウニ」という結論を出してしまうからこそ目の前の「プリン+醤油」とのズレが際立ってくる。だから不思議な気持ちになる。

これが逆に材料や仕組みが見えない場合だったらどうだろう。殴っている音をスピーカーから出して殴っていることを、背中を向けて顔を近づけることでキスしていることを表現したとする。どちらもそれっぽいとは思うかもしれないけれど、実際の行為を目にした時と同じようなショックには及ばない。実際の「殴る」「キス」からただ情報量が減ったコピー品のようなもの見せられているからだ。ウニでもそうで、例えば、ウニそっくり見た目でウニの味を(卵などで)模したものを食べさせられた時感じるのは「ウニだなあ、…でもちょっと違う気がする」とか「このウニ、卵っぽくない?」とかで驚きや笑いは生まれない。なぜならどれもその結果をかたち作る材料や仕組みが見えずズレを感じないからだ。

思い出してほしい、あの鎌田くんの作る舞台でおなじみの黒衣が操る人形を使ったアクションシーンを。あんなアナログな仕掛けにもかかわらず、どういうわけか僕たち観客は「操られる人形の常識外れの動き」「演者の無意味な絶叫」「大袈裟すぎるリアクション」などバラバラな要素(材料)を組み合わせ脳内で大スペクタクルを展開させていたはずだ。いやむしろアナログな仕掛けが丸見えだからこそ、その見た目と自分が受けた感覚のズレに取り残されスペクタクルを驚くべきものにしている。「スペクタクルだ!」ではなく「スペクタクルだ!いや全然違うのだけども!」だ。こうしてバラバラな材料とその仕組みを丸見えにして観客にそれを合成させることで、舞台上にないはずの暴力やキスやスペクタクルをないままにあるものに変えていたのだ。驚きを伴って。

ちなみにこの方法は、鎌田くんが子供向けテレビ番組『シャキーン!』で脚本・構成を担当した際にテーマに選んだ「シミュラクラ現象」とほとんど一致する。それは模様や穴などの点や線が3点配置されていると、人はそれらを目と口にした「顔」を勝手に認識してしまうという現象だ。彼はいつだってガラクタのように思えるバラバラなものから別の何かを生みだそうとしていた。それはバラバラなジャンルを混ぜ合わせたようなナカゴーやほりぶんの物語構成にもあてはまる。あのあり得ないように思われた物語はあり得る見知ったジャンルの物語が組み合わさってできていた。

そしてこのシミュラクラ現象と同じ様に、ナカゴーやほりぶんの舞台では観客は自分からイメージを合成している。ということはこの時、観客は劇世界に加担している。ただよく言われるような物語に入り込んでいるとか、劇世界の住人になっているとかではない。なぜなら合成されたイメージは元々バラバラなものだという矛盾した認識もあるからだ。観客は現実の観客席と虚構の劇世界の狭間で迷子になっている。

これが「材料と仕組みを丸見えにすること」の理由だ。

「材料と仕組みを丸見えにすること」でバラバラな要素を組み合わせ、ないはずのイメージを合成させる。するとイメージと丸見えの過程とにズレ=矛盾が生まれ、見る人はそこに取り残される。その矛盾に耐えられなくなって人は苦しまぎれに驚き、戸惑い、笑いだす。それが鎌田くん達による「嘘だけど、信じて!」という矛盾を成立させる方法であり、ということは舞台上にないはずのものをないままあるものにする方法であり、実体や事実がなくても「本当」にする方法であり、観客を現実と劇世界の狭間で迷子にさせる方法であり、僕がびっくりした自分にびっくりした理由だった。

そしてこの方法「材料と仕組みを丸見えにすること」を鎌田くんはさらに発展させ推し進めていったように思える。いつからか公演の冒頭でこれから始まる劇のあらすじを演者が喋り抜粋したシーンを実演する、いわゆるネタバレをするようになった。劇の全体の仕組みすらも丸見えにすることで、どこまでないものをないままあるものにできるか試しているようだった。

『ていで』という「仕組みが見えること」そのものをタイトルにする公演はその名にふさわしく、そんな実験がちりばめられた公演だったと思う。なかでも金山さん演じる男のあの長い長い語りは言葉自体を「材料と仕組み」と捉えることで、ないはずの記憶が蘇る奇跡的な瞬間だったと僕は思う。

【二】

ところでナカゴーやほりぶんにはクライマックスに必ずと言っていいほど訪れる時間がある。あのいつ終わるともわからない喧噪の時間だ。登場人物達が頑なに各々の主張を通そうと肉体の限りを尽くし暴れまわり口角泡を飛ばし叫び合い諍い続ける、あのしっちゃかめっちゃかと言えばいいのか、てんやわんやと言えばいいのか、ともかくそんな破滅的な時間だ。

いったいあの時間は何だったのだろう。
いったいあの諍いのショックに釣り合うものとは何だったのだろう。
いったいあそこまでしないと現れない舞台上にないものとは何だったのだろう。

まずあの喧噪の時間が始まるきっかけを挙げてみる。

例えば『牛泥棒』。物語の途中で突如、舞台の中心にあった牛の首の剥製が盗まれる。それをきっかけに主人公である女の、牛にまつわる自身と父との記憶が実は捏造だったことが発覚する。そして諍いになる

例えば『さらに』。物語の途中で突如、それまでその性豪っぷりで物語を推進していたある企業の副社長の男性器が中折れし機能不全になる。それをきっかけに男は、いや男を崇拝する周りの人たちも自分達を支えていたアイデンティティーが失われていたことに気づく。そして諍いになる。

諍いは登場人物とその物語を支えていた柱のようなものが折れた時に始まる。その人物と物語を支えていたものが妄想だと発覚した時だ。

そしてこれらの妄想には不思議と共通点がある。それは親(父)子関係だ。その関係は『牛泥棒』では分かりやすく描かれている。では『さらに』や同じような超人が登場する『ベネディクトたち』などはどうだろう。

これはもう確認できないけれど、鎌田くんの舞台に頻繁に登場するマッチョな超人達にはそのモデルと思われるキャラクターが存在する。鎌田くんがインタビューなどでお気に入りの映画として挙げるポール・トーマス・アンダーソン監督作『マグノリア』に登場するトム・クルーズ演じる男性向け自己啓発セミナーのカリスマ講師マッキーだ(同じ監督による映画『ブギーナイツ』の性豪ポルノ男優そして『ザ・マスター』の新興宗教のカリスマ教祖もモデルの一部だと思う)。

大学で心理学を学び「イチモツを敬え! 女を飼いならせ!」という謳い文句をひっさげ、猛烈なマチズモで受講生を鼓舞するカリスマ講師として君臨していたマッキー。しかし応じたインタビューで実は経歴を詐称しており、子供の頃に父に捨てられ病気の母の世話をしながら暮らすも先立たれ学歴も定かではない事が暴かれる。マッキーは動揺し逃げるようにその場を離れ葛藤が始まる。

このことから見えてくるのは、マッキーは父に捨てられた不必要で無能な子(と思っている)としての自分を隠蔽しようと、歪に理想化されたマッチョで完璧な男=父になろうとしたということだ。完璧な男とは自分のコピー(子供)をたくさん残せるという家父長的妄想だ。だから性的なアピールとセミナーの熱狂的な信者(子)が必要だったのだ。このことはマッキーの父親の職業が何十年も続く天才的な子供を集めたクイズ番組の元プロデューサーだということからも暗に示唆される。不必要でも無能でもない有能な「使える」子供を産み(コピーし)続けている番組の父だったのだ。

もちろんこの家父長的妄想は挫折する。この妄想こそ作り物(コピー)だからだ。そして挫折し叶わない理想の父との同化をやめた時、コピーとしての自分ではなく一人の一度きりのオリジナルな存在として初めて本当の自分とそして母子を捨てたことを悔恨する本当の父と対峙する。

鎌田くんの作品に現れる超人達もマッキーと同じように家来や子分や社員を従えその強烈なマチズモをアピールする(コント『先生とお母さんとヘビ』に登場するマッチョな小学校教師は襲ってくる蛇を釣り竿のように持ち(それは巨大化した男性器のようでもある)言う「どうだい?松方弘樹みたいだろ?」)。そしてマッキーと同じようにそのカリスマ性に綻びが生じた時から葛藤が始まる。彼らは超人なんかではなく超人(理想化された父)の妄想に取り憑かれた子供なのだ。

ただし『マグノリア』とは違う点がある。鎌田くんの作品の場合、妄想の親(父)が消えたとしても出会うべき親(父)はいないのだ。

思えば鎌田くんの作品のほぼ全てに家族とその失われた親(父)子関係が描かれていた。そう見えない場合でも例外ではなかった。例えばほりぶん『得て』を思い出してほしい。あの舞台に登場するのはファーストフード店(ケンタッキー)で働くアルバイト店員達のみだ。しかし彼女らはいわばケンタッキーの父カーネル・サンダース(という建前の大資本を持つ「親」会社)を中心としたケンタッキーファミリーともいえる関係であり、その家族的繋がりを強調するようにわざわざ劇中でケンタッキーのCМでおなじみの曲「懐かしきケンタッキーの我が家」(!)が登場人物達によりフルコーラスで歌われる。そしてこの物語もやはりその家族的繋がりが既に破綻していたことが、事後的に発覚するところから諍いが始まる。

だからあの喧噪の時間は、折れてしまった親(父)子関係を新たに結び直すための必死の抵抗として始まる。それはあらかじめ失われてしまっていたものを取り戻すあまりにも無謀な試み。その不在と釣り合うものなどないにもかかわらず行われる徒労の時間。

思い出されるのは短編『堀船の友人』で語られる「従業員の右腕を切り落とすことで残った左腕に特別な能力を宿らせる」というとんかつ和光の方針だ。あれは決してナンセンスな話なんかじゃない。そこには失われた家族と残った家族による再生の願いが響いている。特別な能力を発揮しない限り補えない喪失なのだ。でもだからこそ諍いをやめない。

その喧噪のほとんどは些末な言い合いに過ぎない。「Aだ!」「いやBだ!」、だの「あっちに行こう」「こっちに行こう」だの「殺す!」「殺すな!」だの。でも単純であればあるほど、諍いは加速する。この諍いに使用できる材料は舞台上にある身体と声だけだ。その二つを頼りに演者達は諍いを続ける。

諍いはどんどん過激さを増し、中だるみや脱線も厭わず執拗に反復され続ける。演者達はとり憑かれたように暴れまわり、怒鳴りあい、延々と各々の主張の往還を繰り返し続ける。その反復の濁流に飲み込まれ観客はその場にいながらめまいを起こしたように前後の感覚が曖昧になる。高速で回転(を反復)するプロペラが停止したり逆回転したりして見えるように。そして終わりの見えないこの凄まじい往還の反復はやがてピストン運動と化しその摩擦によってとうとう中折れした物語が反応し始める(『さらに』では主人公の中折れした男性器をまさに繰り返し口で摩擦し勃ち上げようとすることで物語を延命する)。すでに失われたはずの親(父)子関係が脈打ち始める。

この時、僕たち観客はどこにいるのだろう?いったいどこのズレに迷い込んでいるのだろう?

それはきっとこう言い換えられる。配信版『にっかいろとはっかいろ~堀船のごめんねてた~』のラストで唐突にカメラが切り替わりそれまで映らなかった客席が映し出され、なぜか死者の国と化した客席と生者の世界である舞台上との応答が始まった時、それを見ている視聴者はいったいどこにいるのだろうか?と。あるいは『得て』で川上さん演じる女性が生前に残したビデオメッセージの中から突然舞台上に出てきた時、それを見ている観客はどんな存在なのだろうか?と。

その答えは既に失われてしまったものと残されたものの狭間だ。不在と存在の、ないとあるの、死と生の狭間だ。そのあまりに大きな矛盾に取り残され迷子になり耐えきれなくなった観客は戸惑い、あきれ、慄き、そして爆笑を始める。

演者達の喧噪に観客の笑い声が加わる。怒声、吐息、嘆き、涙、中だるみ、脱線、あきれ、そして笑い声、その重なりの激しい摩擦は遂に失われたはずの親(父)を立ち上げる。よく耳を澄ませて聞いて欲しい。この重なりは子供たちがダダをこねる声、この重なりはまるではしゃぐ兄弟姉妹の声、この重なりは親子が言い合う声、この重なりは家族が笑いあう声、そう、この重なりは家族団欒の風景だ。日々繰り返す同じようで少しずつ違う家族団欒をぺちゃんこに圧縮したらきっとこんな風に見えるはずだ。だからあの喧噪は決して冗長でも過剰でもない。むしろ足りな過ぎるのだ。

諍いが続く間だけ現れる不在の父とそれを囲む家族の団欒。それがあの喧噪で取り戻したかった舞台上にないものだったのだ。

この団欒と親(父)子関係に鎌田くんが何を託していたのかはわからない。ただこうして抽象化できるということは、タイミングや環境や見る人によって色んなイメージに展開させられもするということだ。例えばハンバーガー界と人間界との対決を描いた2011年秋の舞台『ダッチプロセス』で、巨大なハンバーガーと化したマッチョ店長と店員や客の関係は、その公演時期も相まって妄想の父としての原子力(政策)とそれに翻弄されるアトムの子としての国民という親(父)子関係になぞらえる事もできた。ハンバーガーは消費社会(原子力社会)の象徴でもあり、巨大なハンバーガーが良いハンバーガーと悪いハンバーガーをまき散らす様はそのまま原発(電力と放射能)に置き換えられもする。劇中、家から出たくない人物の葛藤やハンバーガーがグチャグチャになる喧噪は、原発事故後の先の見えない(そして目に見えない放射能の)恐怖と混乱を見ることもできた。

それは間違いではないかもしれない。でもどちらかと言えば鎌田くんはこの親(父)子関係に何かを託したかったのではなく、何かに親(父)子関係を託したかったように僕には思える。『ダッチプロセス』で言えば、原発事故とそのアナロジーとしてのハンバーガー屋さんに、失われた親(父)子関係そして家族団欒を見出し託したかったのではないだろうか。鎌田くんが希求していたのは彼にとって身近なこう言ってよければ素朴な意味での親(父)子関係、そして家族団欒だったのではないだろうか。

そう、僕たちがナカゴーやほりぶんの舞台で家族団欒を感覚した時、その団欒をかたち作るバラバラなモノ達もまた浮かび上がる。それは妖怪や怪人や幽霊や超人や変態や殺し屋やアルバイト店員たちだ。その多くがいやもしかしたら全てが鎌田くんの近親者やこれまで出会って来た友達や知り合いや地元の人や街の他人や映画のキャラクターや会えなかった人をモデルにしているだろう。鎌田くんとナカゴーやほりぶんのみんながその舞台で見せてくれたのは、そんな年齢や個性も違う、血の繋がりや、生死も問わない、演者か観客か知人か他人かも問わない、バラバラなもの達でも集まれば団欒はできるのだということだ。いや団欒することで家族のように繋がることができるのだということだ。

その団欒でバラバラなものたちは家族のような親しみを感じる。

その親しみは、きっと彼が生涯愛好し全てが詰まっているとインタビューで話したジャッキー・チェン主演『酔拳2』を見終わった時に感じる親しみだ。思い出してほしい。『酔拳2』のエンドロールではジャッキー映画おなじみのNGシーンが流される。今見た映画内のアクションシーンが次々と映され、その都度失敗するジャッキー。ふいにセットの裏側が見切れ現れるスタッフの姿。笑いあうジャッキーと演者たち。その時、僕らは何を感じただろう。それは長い夢から覚めたような感覚と共に、完璧にアクションをこなす手の届かない存在のスーパースターが急に僕らと地続きの場所に来たようなそんな親しみの感覚ではないだろうか。夢物語と思われた異国の映画がぐっと身近になるようなそんな親しみの感覚ではないだろうか。この「映画の本編とそれに続く映画の各NGシーン」という構成をさかさまにしてみてほしい。すると公演の冒頭でこれから始まる劇のあらすじを演者が喋り抜粋したシーンを実演する、僕らがよく知っているあの構成にならないだろうか。ナカゴーやほりぶんの舞台に現れるあの団欒で分かち合いたかったのはこの親しみだったのだ。遠い遠い存在がすぐ隣にいるようなそんな団欒だったのだ。

その場所でバラバラなものたちと共に再び父と子は出会い直す。東京の北の方で。それが鎌田くんが見ていた家族の風景だ。懐かしき北区の我が家だ。

【三】

その子供は今日もビデオデッキの再生ボタンを押す。
もう何度も見たカンフー映画が始まる。
映画が終わりNGシーンが映される。
子供は巻き戻しボタンを押す。
逆再生が終わり映画が始まりに戻る。
子供はまた再生ボタンを押す。
映画が終わりNGシーンが映される。
子供は巻き戻しボタンを押す。
何度も何度も繰り返す再生と逆再生。
やがて子供はそれでも埋まらない空虚さをその空虚さが無くなる時まで逆再生しようと思いつく。
彼はこれまで彼を支えていたビデオを停め仲間たちと共に演劇を作り始めるだろう。
その都度その都度一度きりの演劇を。
今はもうそこにはいない人と再び出会うために。


テニスコート 吉田正幸

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