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鎌田順也 追悼文集 【歌人 枡野浩一】

Kくんのお通夜にいてもKくんとおしゃべりできずつまらない夜

 鎌田順也くんのことは大好きだったけれど、親しかったかと考えると、まったく自信がない。亡くなるまで下の名前をジュンヤと黙読していた。正しくはトシヤだった。下の名前で呼んだことがないくらいの距離感だった。

 劇団ナカゴーは、立ち上げの少しあとくらいから、ほぼ欠かさずに公演を観ていた。ほりぶんは全部観ていると思う。ほかにも別名義のユニットをやったときは観た。「野鳩」という劇団で鎌田くんが俳優をやったときの演技も最高だったが、自作の公演では「黒子」を担当するくらいだった。黒子って。慣れてしまったけど小劇場に黒子が出るなんて、本当、どうかしている。好き嫌いの濃淡はあったけれど、全作、どうかしていた。お笑い界の頂点は鎌田順也だと、何度も原稿に書いた。

 鎌田くんに助けてもらったことがある。拙著『石川くん』がEテレで映像化されることになり、番組内に僕が本人役を演じるコントのコーナーがあった。キス嫌いを公言しているのにポスターの中の女性にキスするシーンがあったりする台本が撮影前日に届き、撮影をボイコットしようと街へ逃げた。丸ノ内線に乗るとき、本来乗るべき方向とは逆方向の列車に乗り込むくらい動揺していたのだが、そこに鎌田くんが神のように立っていたのだ。

 座席にすわって鎌田くんに相談した。いま撮影から逃げようと思っていると。すると彼は「それは枡野さんの見通しが甘かったんですよ。撮影はちゃんと参加したほうがいいです」と、きっぱりと言った。アドバイスは尊敬できる人からのものしか聞きたくないと発言したのはダウ90000蓮見翔さんだが、鎌田くんにそう言われたら聞くしかなかった。

 その台本は僕の希望に合わせて書き直していただくことになり、コントの撮影は思いのほか楽しかった。放送作家はゴウヒデキさん。のちに笹公人さんのもとで歌人となり、短歌賞(未来賞)も受賞した。ゴウさんが企画を担当する「お笑い短歌リーグ」というイベントでは毎回、僕も審査員をつとめている。あのとき丸ノ内線でばったり鎌田くんと会わなかったら、こんな現在は絶対なかったと思う。

 そもそも僕が芸人を目指し始めたのは、そのコントで本人役をやった以降のことなのだ。

 鎌田くんとは対談したことが二度ある。一度は座・高円寺という会場で。彼の演劇公演のアフタートークだった。ビフォートークだったかもしれない。盛り上がらなかった。丸ノ内線のエピソードはそのときも話した。鎌田くんは性をこじらせている男ではないか、みたいな話もしたけれど、特に新しい情報は得られなかった。恋人がいたのかとか、鎌田くんのプライベートはまったく知らなかった。

 二度目の対談は職務質問をやたらと受ける我々というテーマで、やはり職質をよく受けるという「テレビブロス」編集部の前田隆弘さんが司会進行。企画と構成を担当したのはライターの碇雪恵さん。有料だが今もネットで記事が公開されている。コロナ渦だったからオンラインで対面して話した。僕は渋谷で職質を受けたときの動画を自分のYouTubeチャンネルに公開しており、ふた月に五千円くらいのペースで今もお金を稼いでいるが、あの動画ほど笑えるものはないと彼は言った。

 鎌田くんを笑わせるなんて相当だと嬉しかった。五反田団への出演から始まった舞台俳優活動を、もう引退します宣言をしていた僕に「もったいないと思うんですよね」と言ってくれた。それでも演劇に再び出たいとは思えず、鎌田作品は客席で観たいと心から思っていた。あれが彼との最後の会話になったと思う。最後の上演作品が再演だったため、スケジュールに余裕があるときは再演でも観ていたのだけれど、余裕がなくて行かなかった。

 そのとき五十四歳なのに芸能事務所「タイタン」が運営するお笑い芸人養成所「タイタンの学校」芸人コースにかよっていて、ピン芸人としての活動を始めたばかりで、歌人としての仕事も忙しかった。鎌田順也率いる数名でキンブオブコントに挑戦すればいいのにと、鎌田くんに何度か話したことがあった。

 キングオブコントは臨時に組んだユニットでも参加可能なので、鎌田くんを誘ってみようか、でも彼も新作公演の準備中だしなあと、迷っていたら養成所の同期に誘われて、臨時にトリオを組むことになった。一回戦で落ちたけれど、爆笑しながら稽古して楽しかった。

 鎌田くんの通夜には十五分くらいしかいなかった。喪服を持って会場に行って、トイレで喪服に着替えた。だれとも口をきかずに香典を渡して、ご家族や関係者に無言で会釈して、すぐにトイレで元の服に着替えて帰った。それは「憮然としている」というか、ほとんど不機嫌に近い感情だったと思う。鎌田くんの通夜に長居したところで鎌田くんとおしゃべりもできないなんてつまらないと思った。

 家に着いたあたりで長嶋有さんから連絡があり、西荻窪で二人、ごはんを食べることになった。長嶋さんはまだ喪服だったかもしれない。ナカゴーは長嶋さんが小説を教えていた学校の生徒たちで結成された劇団だった。最初はその興味で観始めたのだ。結果、長嶋さんより熱心に彼らの歴史を観ていたと思う。

 長嶋さんは色々な話をしてくれた。必要以上に湿っぽい感じにはならなかった。ただ、くやしいという気持ちがずっと拭えなかった。三十八歳での急死なんて意外すぎて飲み込めないオチだ。岸田國士戯曲賞の最終候補に、やっと一回なったばかりだったじゃんか。通夜の会場には宮藤官九郎さんからの花も、佐久間宣行プロデューサーからの花もあった。松尾スズキさんも日記でナカゴー作品を絶賛していた。僕にとっては多くの選考委員の戯曲よりも鎌田順也の新作のほうが必要だった。

 岸田賞は戯曲を賞の運営(白水社)に提出しなければ候補にならない仕組みで、鎌田くんはそれまで戯曲を紙の形で残すことに熱心ではなく、だから候補にならなかったらしい。賞なんてことを目標にはしていなかったのだ。

 作品の映像化の話を持ちかけた映像関係者に言わせると、「舞台と映像はまったく別物だから」という、至極まっとうな理由でことわられていたそうだ。舞台公演を映像化することにも積極的ではなかった。「鎌田順也を経ていないお笑い好きなんて信用できない」と僕が常々言っていたことに、反発したり共感したりすることが今後の若者にはできない。

 このあいだ、城山羊の会の公演を観た。アフタートークで、作・演出を担当する山内ケンジさんが登壇し、岸田賞の選考委員を長年つとめていた岩松了さんをゲストに迎えてトークが始まった。鎌田順也への追悼の要素がある公演だったため、当然ナカゴーのことが話題に出た。岩松さんは選考委員として鎌田戯曲を読んでいたはずだが、「どうして山内さんがそんなに(熱心に彼の作品を観ていたのか)?」というニュアンスの反応をした。

 岸田賞は戯曲の賞なので、実際の舞台を観て選考会が行われるわけではない。しかしその温度差に愕然とした。山内さんは何か言いたそうにしていたものの鎌田作品の素晴らしさを長々と語ることはせず(力強く短くは語った)、時間切れとなってトークが終わった。観ていなかった人に説明しても無駄だと思ったのかもしれない。そう思ったのは客席にいた僕なのかもしれない。

 その日もこれを書く今も憮然としている。自分の短歌をプリントしたTシャツをつくって販売したとき、鎌田くんはTシャツ着用モデルになってくれたのだけれど(だから僕の短歌TシャツにはXXXLサイズがある)、そのお礼もちゃんとしていなかった。プライベートで食事を一緒にした経験も一度くらいしかない。いつも著書が出るたびに手渡していたのに、コロナ禍だったこともあり枡野浩一全短歌集は渡しそびれてしまった。

 鎌田くん、僕、タイタン所属芸人になったんだよ。職質を一人コントで再現してるよ。リアル職質の動画よりは笑えないかもだけど。

歌人 枡野浩一

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