狩猟者

 チネチッタの名画座が「ディアハンター」を演っていたから、アルバイト先のベトナム女を誘ってふらりと観に行った。午後の三時五十分。夜勤者の俺にとっては、ずいぶんな早起きだ。睡りの足りていない、貧血気味のぼうっとした頭で若きベトコンたちの運命を眺めた。このディエップという女は英語が解らないし、字幕もたいして読めないはずだが、純粋に映画を愉しんでいるように見えた。ディエップはドンホイという、南北の軍事境界線の近くの町で生まれ育ったというのに、戦争の会話にはまるで興味を示さなかった。「すごいね、Kさん勉強してるね、わたし勉強しなかったから」と濡れた舌を出して照れたように笑った。「親父さんが子どもの頃なんて、モロに戦時中じゃないか、ほんとに何も聞いていないの?」ディエップは俺の腕を掴んで腋に頭を入れてきたが、あまりに小柄だから、もたれかかった酔漢のような形になって歩きづらい。「わたし、あまり興味ないから、知らないよ」と朗らかに笑う。「わたしたち、アメリカより強いから、すごいでしょう?」接吻をせがむように、赫く塗った唇を近づけてくる。牛糞のような匂いが漂ってきて、俺は思わず顔をそらした。

 七時半を過ぎていた。少しでいいから眠りたかったが、ディエップがパスタを啜りたいと煩いからモナリザンに入った。一階には誰の姿も見えなかったが、二階のテーブルに通された。ディエップは十分間もメニューを睨んだ挙句、輪切りにされた牛の胃袋と豚の頬肉を塩漬けにしたものが入った赤黒いパスタと、どろりとしたチーズにまみれたキャセロールスパゲティの両方が食いたいと言った。運ばれてきたものを見て、体調が万全でない俺は嘔気を催したが、ディエップは嬉々として写真を撮った。角度からして、自分が映り込んだ気がした。「おれのこと、インスタにあげんなよ、面倒くさいから」ディエップはフォークを置いて、真剣な顔をした。「何が面倒くさい?」俺はチーズと唾液が絡んでいるフォークを舐めとってから、肉の歯車といったような牛の胃袋を刺して口に放った。「店の奴に見られたら色々言われるだろ、そういうのが厭なんだよ、おれは」ディエップはわかりやすく顔をしかめた。「いいじゃない、わたしは気にしないよ、周りはどうでもいい、何が困る」八時二十二分。あと二時間足らずで夜勤だ。パスタはほとんど減っていない。俺は苦々しい思いで、ディエップの唇を濡らす月経じみたソースを見つめた。困るんだよ、俺がお前と遊んでいるのが露見したら、ほかの女が性交してくれないかもしれないじゃないか、ベトナム女が病的に独占欲が強いってのはどうやら真実らしいぞ。黙っている俺をディエップは睨み続けた。フォークには手をつけようともしない。俺は苛々してきたが、表には出さないよう笑顔で顎をしゃくって食べるよう促した。ディエップは駄々っ子のように首を振った。莫迦が、いいから食えよ。そう思った。食って、さっさと駅前のホテルに、いや、もう時間がない、その辺の、この店の便所でもいい、豚の頬肉の塩漬けの臭いのするお前の性器に、牛の胃袋のようにパンパンに張った俺の性器をこすりつけてやる、さあ食えよ、時間がないんだぜ。……

 痺れを切らした俺は、残りのパスタを丸呑みしてやった。路地に出てから、不法に棄てられている酒瓶の山に嘔吐した。ディエップは甲高く笑いながら背中を叩いてくれた。駅前の方に歩きながら、まだ俺は軀をこすりつけ合うことを考えていた。病的なのは、俺のほうだ。ふと、異様な騒めきを感じた。駅で、何かが起きたのだろうか? サイレンがひっきりなしに鳴っている。数十人の警官が、ずらりと並んで立っている。俺は彼らを通り過ぎる時も、ふいになった性交のことを考え続けていた。なぜ「ディアハンター」など観たのだろう。だいいち、長すぎる。俺は狩猟者失格だ。熱くなった銃身を構えることすらできなかった。ディエップと別れて京急線に揺られているときに、競馬場の方で発砲事件が起こったのを報った。拳銃を持ったやくざが、川崎駅の方に逃亡したらしい。すでに橋をこえて、蒲田の歓楽街に溶け込んでいるかもしれない。或いは、この電車の、この車両に潜んでいるかもしれない。見回りに来た警官が、俺の前で一瞬足を止め、次の車両に移っていった。狩猟者が獣のにおいを嗅ぎわけるように、撃ち殺されるべき者の体臭を感じとったのだろうか。警官が去ってからも、乗客の視線をちらちらと感じた。もう少しで蒲田だ。着いてしまえば、こっちのものだ。誰を捕らえればいいか、警官たちはひどく混乱することになる。銃を忍ばせたやくざはいま、まんまと暗い路地に逃げ果せようとしている。だが改札の前には、街の荒廃に馴れた警官たちが発砲犯を待ち伏せているはすだ。雄鹿を仕留め損なったベトナム帰還兵のように躊躇することなく、一撃で脳天を撃ち抜いてくれるといいのだが。.......

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?