名もなきチャイナタウン

 行き交う自動車のヘッドライトや街灯が、濡れた歩道を赤く照らしている。その中を傘を差した観光客が俯きがちに歩いてくる。探偵小説じみた味わいのある、ポランスキーが好みそうな風景。真夜中だというのに、十数人の群衆が路地に犇めきあっているさまは異様だが、高層ホテルが林立しているのだから、とりわけ不自然な光景でもない。繁華街から離れた、寂れた漁師町だ。ドブ川に挟まれた東京湾のほとりで、いったい何が獲れるというのか。
 観光客は空港からこの駅に降りて、ホテルに向かうために死んだも同然の物哀しい商店街を歩いてくる。踏切の目の前には古本が豊富な喫茶店があり、百円で叩き売りされている文庫本の棚が雨風にさらされている。最下段には新潮文庫のドストエフスキーがずらりと並んでいるが、何年経っても売れる様子がない。

 中国人の集団の影が、店の前を通り過ぎるのを窓から覗いていた。商店街の果てまで歩いたところで、店はほとんどシャッターを下ろしているから、呼び込めば、たいていの客は入ってくる。呼んでもいないのに、中国人たちはまっすぐこの店に戻ってきた。老若男女、十五人。疫病を怖れてみな顎にマスクをかけたまま飯を食っている。一口食うたびに、わざわざ鼻まで引き上げて咀嚼する老婆もいる。中国では、食器を汚し、あえて食べ残すのがマナーとされるらしい。リンがそう教えてくれた。リンは中国人の客が嫌いで、同郷だと悟られぬように、わざわざ名札にハヤシと拙い片仮名で書いていた。リンは偽装結婚をして手に入れたビザでこの街に暮らしている。
 飢えた野良犬がむさぼった残骸のようなテーブルを片付ける日々。中国人観光客はオリンピックの夏に向けて増える一方だろう。真夜中の路地はきょうも薄気味悪い影で満ち満ちている。俺はニュースを騒がしつつある疫病が、この街から指数関数的に蔓延する気がしてならない。……

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